2021年07月03日

鬼押出し園開園70周年に行ってきました【3】

 堤康次郎がどうして鬼押出し園を開発する気になったかと言うと、これにはこんなエピソードがあります。堤康次郎は、千ヶ滝の別荘地を開発した時に温泉が湧いてるのを発見しました。今でも千ヶ滝のあるせせらぎの道に、自噴している温泉があり、その温水が川に流れているわけですが、その川のほとりに温泉をみつけたわけです。


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(千ヶ滝には温泉が自噴している。温泉に手を入れている息子)


 堤康次郎は、これを利用して千ヶ滝温泉を作ったわけですが、源泉が37度と低かったためにボイラーで沸かして共同浴場にせざるをえなく、なんとか高温の温泉を手に入れたいと思っていたら、浅間山のむこうがわに草津街道の北に万座温泉という温泉があるらしいと聞いて、その万座の湯を千ヶ滝にパイプラインで引こうとしました。

 そんなの無理だと止めますが、堤康次郎は言い出したら聞かない性分で、そくざに万座に向かって出発します。昔は、千ヶ滝から峰の茶屋まで真っ直ぐに草津街道が通っていて、峰の茶屋は山小屋でもありました。外国人宣教師たちは、ここから浅間山登山をしたわけですが、その登山者の数は、ピーク時に15万人もいたといいます。もちろんガイド・ポーター(荷物運び)も大勢いて、外国人宣教師たちを案内していましたから、千ヶ滝から峰の茶屋までの道路は、かなり整備されていました。

 余談ですが、夏の軽井沢に外国人宣教師たちが集結したのには理由があります。原因は大日本憲法発布にあります。憲法発布によって信教の自由が保障されたのはよかったのですが、第1回衆議院選挙で自由民権運動を展開した人達が作った立憲自由党などの野党が大勝してしまったために、キリスト教へ攻撃的になってしまった。

 明治政府は、近代的西洋文明を模倣した革新派だったのですが、野党勢力(自由民権派)は国粋的国家主義を主張していました。当時の一般民衆は、排他的であったわけです。明治政府は外国を気にしていたけれど、自由民権運動の野党は排他的だったし、国粋主義的だった。そのために、この時期に外国から派遣された宣教師達は窮地に陥った。

 欧化政策の時に上流階級の令嬢たちが競って入学した東洋英和女学校は明治22年に225名の在校生がいたのに、その3年後には70名まで減ってしまっていました。地方にあったキリスト教の系統の英語学校も、次々と廃校となりました。こんな風潮の時代に夏になると軽井沢に来る外国人が増えてきた。宣教師マイラ・ビージーは、明治26年の夏に
「アメリカ人が堂々と通りを歩いてると、若い日本人から、蔑視される風潮が強くなってることを感じる」
と嘆いている。だから
「軽井沢はリトリートに不可欠のところです」
と言っていた。

 リトリートという言葉は、『一時退却』を意味します。
 次への飛躍のためにしばらく避難するという意味です。

 彼らは野党勢力(自由民権派)の国粋的な主張を恐れて軽井沢に避難してきた。日本全国から宣教師たちが夏の軽井沢に避難してきて、集結して臨時総会を開き、1年間に起こった色々な問題を討議し各地の活動報告を聞き翌年の方針を決めていました。軽井沢は、宣教師たちにとっての単なる避暑地ではなく、日本布教の作戦会議の場となっていた。だから宣教師が軽井沢に集中したわけです。自由民権派の国粋的な思想が、今の軽井沢を作ったという一面もあったわけです。

 その結果、軽井沢が国際的に有名になり、夏になると東アジア各国から宣教師が集まり、教派を超えて布教活動や現地情報などを交換する大きな会議が頻繁に開催されました。それを嫌がった宣教師の一部は、軽井沢を捨てて野反湖に移転したりします。その一人であるW.R.マクウィリアムズは 「糊のきいたシャツを着て、形式張ったお茶会や、1週間に7回もの会議に出席することから逃れるために、浅間山に登る必要がなくなる。野尻湖へ行こう。野尻湖では眉をしかめられることなしに一夏を水着で過ごすことができる」と述べています。

 つまり宣教師たちは、軽井沢の教会雑事を避けるために夏の間に、浅間山登山にはしりました。宣教師による登山ブームが訪れたのです。彼らは峰の茶屋を経由して浅間山に登りました。





 もちろん日本人ガイドと一緒にです。
 ガイド料金は、明治40年頃で75銭ですから、かなりの高給です。
 ぼったくっていました。
 そのうえ宣教師たちに土地を売るときも、10倍もぼったくっています。
 日本人には1坪5厘で売ったけれど、
 宣教師たちには1坪5銭で売ってますから10倍もふっかけています。

 もちろん堤康次郎にも千ヶ滝を1坪5銭で売ってますから
 10倍も高く買わされているのは、堤康次郎も同じです。
 堤康次郎もぼったくられている。


 話がそれました。
 話をもどします。

 堤康次郎が、万座温泉からパイプラインを引こうとして、万座温泉に偵察にでかけようとして、峰の茶屋まで行った話の続きを述べます。千ヶ滝から峰の茶屋までは、道がしっかりしていました。しかし、峰の茶屋から先は、火星か?と思えるほどの荒涼たる地形で、明治の初め頃は、狼が群れをなして獣(鹿など)を襲わんとする荒野でした。


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 いまでこそ皆無ですが、昔は浅間山麓に鹿が大量に生息し、その鹿を狼が襲ったりして、多くの獣骨が散らばっていたと言います。万座温泉は、はるか彼方に見えます。あまりに遠いためにパイプラインは諦めた堤康次郎ですが、その途中にあった鬼押出しの風景に圧倒されます。

 鬼押出しの土地を観光地として開発し、千ヶ滝別荘地・軽井沢の御客さんを鬼押出しに観光させれば儲かる。さらに時前の観光バスを走ららけばもっと儲かると考えた堤康次郎は、鬼押出しの80万坪の払い下げを前橋営林署に申し出ました。この時後藤新平の助力を得て天然記念物の保護という名目で許可を得たと言います。ちなみに堤康次郎は、万座の温泉も非常に気に入って鬼押しハイウェイが完成した後に万座までの有料道路の開発も行います。

 話は変わりますが千ヶ滝の別荘開発を行うときに堤康次郎は、デパートというかパルコの元祖のようなものを考え出しています。彼はテナント料を無料にして業者を集め、食料品・文房具屋・本屋など、別荘客が不便に感じないような、いわゆるパルコのようなものを作りました。これが千ヶ滝にあった西武デパートの原型となっています。

 これが大成功となり、この成功方法で箱根で膨大な利益をあげますが、その箱根の利益は軽井沢に投資されていきます。箱根の利益を軽井沢に投資続けたのが堤康次郎です。軽井沢と嬬恋村にしてみたら大恩人になるわけですが、軽井沢も嬬恋村も必ずしも堤康次郎に好意的だったとはいえません。自然開発による環境破壊の元凶のように言われた時期もあります。

 ただし、結果として堤康次郎によって軽井沢の景観が守られるという逆説がおきています。西武による大規模開発により千ヶ滝や南軽井沢一帯の開発がいわゆる虫食い状態にならずにすみ、計画的なデザインによる管理によって、別荘地リゾート地としての価値を高める結果となっています。つまり大規模開発が現在の軽井沢の景観保護には役立っています。

 これは雨宮敬次郎・野沢源治郎による大規模開発にもいえることです。虫食いの別荘地にならずにすみ、変な雑居ビルが建つことも無く、パチンコや風俗産業がはいることもなく、今の軽井沢の価値が高まったのは、堤康次郎の文化人村構想による整然とした開発計画によってもたらされたとも言えます。


つづく。

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posted by マネージャー at 19:22| Comment(0) | 総合観光案内 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする