若い人には馴染みのない名前かもしれません。けれど昭和時代にお茶の間でテレビにかじりついていた世代にとっては、 大坂志郎さんは、森繁久弥さん・竹脇無我さん・石橋哲也さんらと、よく共演し、ホームドラマで日常的に見かける俳優さんでした。ホームドラマといえば、大坂志郎さんでした。
「大岡越前」の村上源次郎。
「だいこんの花」の相馬京太郎。
「パパと呼ばないで」の井上精太郎。
「雑居時代」の栗山信。
「玉ねぎ横丁の花嫁さん」の源太郎。
「どてかぼちゃ」の猪股。
「おひかえあそばせ」の池西猪太郎。
「おふくろさん」の八兵衛。
「七色とんがらし」のヤス。
この大坂志郎さんは秋田県能代市に生まれます。と言っても本人には、秋田県能代市の記憶があったかどうか? 幼い頃(昭和2年・当時6歳)に母親と、年子の妹さんと上京しているからです。
お母さんの名前は神成志保さん。秋田県の北にある鷹巣町の素封家に生まれ、19歳で能代の大きな米問屋に嫁ぎ、二人の子供を産みますが、夫は放蕩息子で女遊びで家をかえりみない日々。舅と姑がほぼ同時期に亡くなったことを契機に、「東京見物に行く」と着の身着のまま二人の幼子を連れ、東京に出てきます。そして保険の外交員などをしながら、幼子二人を女手ひとつで育て上げ、苦労に苦労を重ねて、新宿に居酒屋「秋田」を開店しました。
家(裕福な米問屋)を捨て東京で暮らすという母の一大決心を七歳の志郎は、毎朝新聞配達をして家計を支え、母志保子、妹の澪(みお)とともに、親子三人肩を寄せ合って暮らしました。志郎は(旧制)中学受験に合格していたにもかかわらず、学費がないために就職を決意。
その後に経済的余裕のできた母が学校に通わせようとしても、妹の学校を優先すべしと、絶対に耳を貸そうとしません。あの俳優大坂志郎はこうした境遇から脱出して、天下の名優になったのです。名監督・小津安二郎に罵倒され不遇な時期もありましたが、誰に対しても心優しく、家族思いの彼をほっておく人は無く、やがてテレビドラマの名脇役として大成します。
それはともかく「妹の学校を優先すべし」と言われて明治大学女子部法学科を卒業した妹の澪(みお)さんは、人形劇団プーク美術部で創作活動を開始。人形作家としてデビューし、陶芸やステンドグラスなどの工芸作品、また人形写真芝居の脚本、本の装丁などの創作活動を行い、陶芸では陶壁など大規模な作品も手がけ、昭和40年代には香川県内海町立星城小学校(S41)、高松市・ホテル川六(S43)、福島県立大原総合病院(S47)、など公共建築物の陶壁などを製作。日展に9回入選するなど工芸の道を歩み、その後陶芸やステンドグラス作家としても数々の作品を発表しています。
(居酒屋「秋田」・東京における郷土料理屋のはしりだった)
ちなみにお母さんの神成志保さんは、昭和53年まで居酒屋「秋田」を経営し、店には太宰治、井上靖、木下恵介、中野重治、伊藤整、高見順、梅崎春生、坂口安吾、亀井勝一郎、浅見淵、丸山定夫、藤原釜足、千田是也、清水将夫、川島雄三、中平康、小杉勇、金子信雄、フランキー堺、西河克己、阿木翁助、田中澄江、有吉佐和子、田村泰次郎、丹羽文雄、清川虹子、安井昌二、花柳章太郎、山田五十鈴、桂小金治、井伏鱒二、三好達治などなど、文士・画家・編集者・演劇人・映画人・学者らが出入りする居酒屋となり、神成志保さんは、その世界で知らぬ者はいなかったと言います。
ちなみに神成志保さんは、非常に神仏に対して信心深い人でした。その彼女が昭和42年8月に鬼押出し園に観光に来たとき、その風景と歴史に感銘をうけ、さらに鬼押出し園の観音堂に参拝したときに心を動かされました。しかも夢枕に観世音菩薩が出現して、
「この霊地に観音菩薩を建立しなさい」
との仰せをうけ、鬼押出し園に炎観音を建立することを思い立ったわけです。
ここで妹の澪(みお)さんが大活躍します。大坂志郎さんが、「妹の学校を優先すべし」と母親に強く言い聞かせ、妹を進学させたことに対して、澪(みお)さんなりの恩返しができたわけです。澪(みお)さんは、発憤し、三ヶ年にもわたって母の志保さんと一緒に製作し、鬼押出し園の奥の院に炎観世音菩薩像を作り上げました。
そして昭和47年10月に鬼押出し園に炎観世音菩薩が登場します。
すると翌年から、パタッと浅間山の噴火が無くなってしまった。
200年近く噴火を続け、東京まで火山灰を降らせ続けた浅間山の噴火が、バッタリと無くなったのです。
鬼押出し園の奥の院いくと、炎観世音菩薩がありますが、この観音様には、こういういわれがあるわけですが、このことを知ってる地元民は誰もいません。奥の院の掲示板には、いわれが書かれてありますが、そこに澪子とありますが、これは「澪(みお)」ではないでしょうか?
つづく。
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