ここだけは入園料なしで入れます。
最初は、どうして第一小学校旧校舎が、やんば天明泥流ミュージアムにあるのか分かりませんでしたが、第一小学校旧校舎に入ってみてわかりました。長野原町民にとって、この第一小学校旧校舎は、いわゆるシンボルみたいなものなんですね。というか、やんば天明泥流ミュージアムが、長野原の林地区のある理由がわかったし、ここに道の駅をつくった理由もわかった。やんば故郷公園が、ここにあるのもわかりました。ここに長野原の、いや、群馬県民のアイデンティティがあったということです。
つまり上毛カルタの生みの親である浦野匡彦(まさひこ)氏の生家が、やんば天明泥流ミュージアムに隣接してあった。しかも、浦野匡彦氏の父親は、王城山神社の神主で、上毛かるたファンにとって王城山神社は、聖地だった。
と、ここまで書くと、他県の人にとって「上毛カルタって何?」ということになりますが、群馬県民のアイデンティティが上毛カルタになります。私は新潟県出身なので、群馬県民の上毛カルタ熱には、冷ややかにみていますが、群馬人の上毛カルタ熱といったら凄いもので、群馬生まれで上毛カルタを知らない奴がいたら絶対にモグリです。
これは銀座のバーやキャバレーで言われている都市伝説なのですが、
「群馬県出身の女を落とすには、上毛カルタの話題が一番」
という話があって、群馬生まれのうちの嫁さんに「それは本当か?」と聞いたら「おそらく本当だと思う」と言ったくらいですから、あながち都市伝説とも言いがたいところです。
とにかく群馬県民の上毛カルタ熱は凄いのです。その上毛カルタを作った浦野匡彦氏は、上毛カルタの神様ということになり、浦野一族が、代々、王城山神社の神主をつとめてきたことも含めて、やはり神様と言っていいかもしれません。
さて、この上毛カルタが誕生したきっかけです。
戦後、GHQによって学校教育での
地理・歴史・道徳の授業は停止されていました。
子供たちは、地理も歴史も道徳も学べなかった。
GHQによって教育の機会を奪われていた。
それに対して、密かに
「地理と歴史を学ばせたい」
という男が現れた。
浦野匡彦という王城山神社の神主さんのせがれだった。
浦野匡彦氏は、明治43年、長野原町林地区に十二人兄弟の六男として生まれました。旧制前橋中学から二松学舎専門学校に進み、卒業後は外務省の給費留学生として北京で学び、満州国官吏として北京大使館一等書記官などを務めました。昭和21年、家族とともに北京から群馬に引き揚げた。その後は、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り、戦争犠牲者の支援に取り組んでいました。
敗戦後の世情は混乱し、戦争孤児・寡婦などの境遇は悲惨なものでした。そのうえGHQの指令により、学校教育での地理・歴史の授業は停止されていました。それを残念に思っていた浦野匡彦氏は、子供たちには愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたい、という思いを募らせました。そんな中、昭和21年7月15日に前橋市で開かれた引揚者大会で、安中出身のキリスト教伝道者の須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案され、これだと思います。
誰もが食べることに精いっぱいの時代。郷土の子供たちに誇るべき群馬の文化と歴史を伝えたい、と同じ思いの人たちとかるた作りに取り組みました。復員軍人や東京から疎開してきた人たちなど、いろいろな人が家族的な雰囲気の中でかるたを作っていました。
ある日、浦野匡彦氏は農家の軒先に積み上げられた残り物のサツマイモの利用方法からヒントを得てイモ飴を作り、同胞飴(はらからあめ)として売り出しました。それがヒットし、サツマイモ生産農家や運搬・加工・販売する人たちの生活資金になり、その資金の一部が上毛かるた制作のために使われます。はらからは、同胞(同じ国民、仲間)を意味する言葉です。
昭和22年1月11日の上毛新聞紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募ります。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会によってカルタの句が選ばれますが、GHQの検閲にあって何度もダメだしをうけますが、浦野匡彦氏も頑強に抵抗します。
そのうち論争相手のGHQ側も、
「これは浦野匡彦氏が正しい」
と思い始めますが、組織としてのGHQは、徹底的に弾圧の手をゆるめない。
あくまでも検閲を行い弾圧するわけですが、弾圧する側にも自分たちが間違っていることはわかっているから、組織としてはダメだしするけれど、現場の人たちは浦野匡彦氏個人に対しては尊敬し、GHQの占領期間が終わってからもずっと、浦野匡彦氏の著書などを読み続けたりする。戦後何十年たっても、浦野匡彦氏の本がでるとアメリカから注文が来たりする。そういう関係になるくらい浦野匡彦氏は敵側に尊敬されていた。
結局、上毛カルタは、検閲に屈して発表されるわけですが、浦野匡彦氏はカードの一部に暗号を入れた。
当時の日本では歴史・地理・道徳教育が禁止されていました。国定忠治や小栗上野介をどうしても入れたかったが、GHQの検閲により国定忠治は任侠者、小栗上野介は武士との理由で拒否されてしまいました。読むことが許されなかったこれらの人物を「義理人情」という群馬県民の気質を表す言葉に託し、いつかこの人たちを読んだ札を入れるんだという思いを、力強い雷神様の絵に込めたとされています。つまりGHQにはわからないように、カードに暗号を入れて「GHQに抵抗した」という証拠を残した。
そして、上毛カルタが完成すると、さっそく子供たちを集めて上毛カルタ大会を開いた。GHQによって学校教育での地理・歴史・道徳の授業は停止されていましたから、子供たちが上毛カルタ大会をして、それに熱中すればするほど、GHQに抵抗することになる。
しかも、その上毛カルタを作る資金は、『はらから飴』によって作られていた。地理も歴史も道徳も学べなかった子供たちは、上毛カルタに熱中することによって、GHQに抵抗していた。上州人の子供たちが、上毛カルタに熱砂注すればするほど、GHQの鼻をあかしたことになる。
まったく浦野匡彦という男は、凄いことを考えたものだと他県民ながら感心しますが、同時に当時の上州人たちの心意気というか、上州の教育関係者と上毛新聞社の恐るべき慧眼にも心底感心する。そして「群馬県出身の女を落とすには、上毛カルタの話題が一番」という都市伝説が生まれるほどに上毛カルタは、上州人の心に入っていくわけです。
そして、かかあ天下の上州女が、上毛カルタに心をよせ、息子や娘に上毛カルタを仕込んで孫や曾孫の世代まで上毛カルタを普及していった。これは凄いことです。
そのうえ占領期間が終わった時、検閲・弾圧された上毛カルタを浦野匡彦氏は、改訂しなかった。検閲・弾圧された上毛カルタをそのまま使い続け、県民の人口を変えるだけにとどめました。これによって群馬県が保守王国になったとしても言い過ぎではないと思う。上毛カルタには、浦野匡彦氏のサブリミナル効果となって群馬県民の深層に深く入り込んでいると思います。上毛カルタに浦野匡彦と当時の教育関係者の怨念をみますが、これは、他県から移住してきたものにしか、分かりにくいと思う。普通に群馬に生まれた人には、ピンと来ないと思う。
ちなみに戦後の社会や教育の復興の中で、現在に至るまで、全国 47 都道府県すべてに「郷土かるた」ができていますが、都道府県のレベルから各区市町村や「上毛かるた」と社会科教育・各地域、学校のものまで合わせると、その数は、市販されているものや主なものだけでも、530 点以上あります。
その内、圧倒的に多いのが、群馬県の 107 点、
(終戦直後の群馬には196の市町村があった)
次いで埼玉県 63 点、
新潟県 27 点となります。
群馬県の両隣にある県である新潟と埼玉に郷土かるたが多いのは、単なる偶然ではないでしょう。
上毛カルタの影響をうけているに違いありません。
なにしろ「上毛かるた」こそ郷土かるたの発祥地なのですから。
ちなみに吾妻郡では、どの市町村にも郷土カルタがある。
このような郷土カルタで遊ぶことによって、
禁止された地理・歴史・道徳の授業を行っていた。
GHQに抵抗していた。
それは、GHQ側の担当者も知っていたと思うが、
浦野匡彦氏の正論に、郷土カルタを禁止できなかった。
こうして群馬の子供たちは、遊びながら地理・歴史・道徳を学んでいった。
「雷と空風 義理人情」
このカードに仕込まれた暗号を学びながら・・・。
こうして上州人たちによって、
いや、上州の子供と、父ちゃん母ちゃんたちによって
GHQの弾圧は叩きつぶされたのだった。
つづく。
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