どうしてそんなところに大きな湖があったかと言うと、火口から鬼押出し園に至る一帯にわたって 不透水層があった。そのたびに大量の水を蓄える装置があって、鬼押出し園から浅間園に至る一体に大きな湖を作っていました。これが何らかの理由で、おそらく大量の溶岩が水蒸気爆殺か何かが起こって湖が決壊したものと思われます。
問題は、その湖が単なる湖で無かったことです。浅間山山麓に(火砕流でできたと思われる)不透水層。つまり水を透過させない地層があり、その結果、大量の水が鬼押出し園の位置にあった柳井湖に注ぎ込んでいた。
それが噴火とともに決壊し、大量の土石雪崩がおき、軽井沢おもちゃ王国付近から浅間サンランド方面にわたって流れ、それが吾妻川になだれこんだと推測されます。
ちなみにこれを発見したのは、群馬大学の早川由紀夫教授で、20年ちかく前の2004年に助教授時代の早川先生に『あかるく楽しい火山教室』を誘致して教えてもらって学習させてもらいました。そして早川先生によって浅間山ミュージアムが設立されて、嬬恋郷土資料館の松島先生・唐沢先生などを迎えて、鹿沢休暇村の協力のもとで、長野原町の住民(大学村の人たち)も一緒に火山学習・地域学習をさせてもらいました。長野原町の住民(大学村の人たち)が加わるきっかけになったのは、土屋文明記念館で北軽井沢をテーマに企画展が開催され、それを私たちが協力したときに知り合った大学村の人たちに興味をもたれたからです。ジオパークができる、はるか以前のことです。不透水層に関することは、東京大学の荒牧重雄名誉教授に嬬恋村の水道局見学で教えて頂きました。
早川先生も、荒牧先生も、松島先生も、唐沢先生も、大昔から嬬恋村に多大な貢献をしています。
話がそれました。
何らかの理由で土石なだれが発生し、空っぽになってしまった柳井湖に、鬼押出し溶岩が次々とはいりこみ、湖を埋め尽くしてしまったわけです。その残骸が浅間園の吊り橋のところでみられますが、目視するだけでも柳井湖は、かなり深い湖だったことがわかります。相当な量の水を蓄えていたようです。これを『沼』と表現するのは適切ではないでしょう。あきらかに『湖』であり柳井湖が正解だと思います。
また、鬼押出し園の先端部は、いまでも大量のわき水のでるところで、それを利用して鎌原用水。そして嬬恋村の水道水として利用されています。それでも使い切れない水が、スズラン坂交差点から大笹にいたる県道235号線一帯を湿地にしていて、ちょっとした雨で道路が水浸しになります。
嬬恋村の土木事務所が、それを改善しようとして、何度も暗渠工事を行いましたが、絶望的なようで、A地点を工事すれば、B地点がダメになり、B地点を工事するとA地点がダメになるという堂々めぐりになるのだそうです。現代の土木技術をもってしても、道路の改善はみこめないくらいの湿地になっている。湿地といっても地盤が悪いというわけでなく、不透水層のために水がわきおこるというものらしい。
どうして、こんなことになっているのか? これは単なる推測になりますが、浅間山麓に広範囲の不透水層があって、それが鬼押出し園付近に集中して流し込むような地下構造になっていることが推測できます。それが証拠に嬬恋村の水道の水源が、各地の鬼押出し園の溶岩の先端部からとっているからです。溶岩の先端部から水がどんどん流れている。こういう土地に住んでいるということを私たち地元民は、認識すべきですね。
伊豆山の災害も、人ごとではないわけです。
以上、解説したことは、嬬恋郷土資料館でも、やんば天明泥流ミュージアムでも、ほとんどふれられていません。だからあえて、ここに書いたわけですが、仮にも博物館と名がついたら、確定されてない、いわゆる「仮説」を解説するわには、いかないので、ふれるわけにはいかないのだと思います。それだけに古い無難な学説で解説されてしまうので、そのあたりを割り引いて見学されるとよいと思います。
できれば、「嬬恋郷土資料館」と「やんば天明泥流ミュージアム」をセットで見学されるとよいかと思います。泥流に飲み込まれた八ッ場地区と、乾いた土砂に沈没してしまった鎌原。両者の違いも面白いし、出土品の比較も面白い。嬬恋郷土資料館は、1980年頃の解説がかかれてあるし、やんば天明泥流ミュージアムでは、比較的新しい学説で解説されてあります。2つを見比べると面白いです。そのあとに、浅間園と鬼押出し園を歩けば言うこと無しです。
鬼押出し園については、神成志保・神成澪・大坂志郎の物語。そして、寛永寺についてと、堤康次郎の物語を知った上で見学されると面白いです。NHK『おしん』のモデル疑惑も囁かれている神成志保・神成澪・大坂志郎の物語については、後日、もっと詳しいエピソード紹介したいと思います。
つづく。
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