あと、日本最初のカラー映画で、木下恵介監督「カルメン故郷に帰る(昭和26年)」も、浅間牧場をメインに撮影しています。浅間牧場には、カルメンの樹という樹木が今でも残っていて、私は、その木を毎日のように眺めています。主演は、高峰秀子、小林トシ子、笠智衆です。この映画には、今は無き草軽鉄道の北軽井沢駅が写っています。
ただし、もう一つの舞台である小学校が、千ヶ滝小学校が舞台なので、浅間山がスクリーンに逆に写ってしまっています。ちなみに千ヶ滝小学校は、千ヶ滝温泉のそばにあったテニスコートのところにありました。旧西武デパートの隣になります。この小学校には、西武グループのニ代目にあたる堤義明も通っていたし、山本五十六のお子さんも通っていたと言われています。山本五十六のお子さんと平成天皇は、非常に仲がよくて、千ヶ滝でよく遊んだと言う話を聞いたことがあります。そういうこともあって、平成天皇は、千ヶ滝に思い入れがあったようですね。
話がそれました。
「あの丘越えて(昭和26年)」も浅間牧場で撮影されています。オープニングから美空ひばりが、馬に乗って浅間牧場で歌っている姿は、かなり壮観です。鶴田浩二も、すごい美男子で、いい演技をしています。ただし、浅間牧場からカットが変わって、上高地になったりする。上高地と浅間牧場が繋がっているのは、山屋としては、どうもね。浅間牧場の隣が大正池というのに興ざめします。
そして「月がとっても青いから(昭和30年)」も、浅間牧場で撮影されています。これは、映画より菅原都々子の歌う同名の歌謡曲の方が有名ですね。菅原都々子は、『佐渡ヶ島悲歌(エレジー)』などを歌い悲壮感のある声質も相まって「エレジー(悲歌)の女王」と異名をとる歌手でしたが、『月がとっても青いから』の妙に明るくてテンポのよい曲を歌うことによって大ヒット。映画のヒットとの相乗効果で、100万枚の大ヒット作になりました。現在の3000万枚に匹敵する売上げだそうです。いわゆるメディアミックスですね。この大ヒットで、菅原ツヅ子は、『北上夜曲』とかをヒットさせますが、これもメディアミックスでした。
(余談になりますが、日活の『北上夜曲』の中島監督は私の恩師にあたります。もう一つ余談をいうと松原智恵子のデビュー作で当時は超絶美人でした)
ちなみに「月がとっても青いから」の監督にあたる森永健次郎は、私の恩師にあたり学校や私生活でたいへんお世話になりました。一癖も二癖もある映画監督が多い中で、森永健次郎氏は、穏やかで人徳者だったために、仕事が大量にやってくるという状態だったので、ものすごい数の映画を撮っています。アイドル映画の監督をやることもおおく、映画をヒットさせました。
すごいなあ・・・と思ったのは、吉永小百合・芦川いづみ・浅丘ルリ子・和泉雅子が主演する『若草物語』で、たった1分銀座を歩くだけのシーンに、銀座のセットを作って撮影したというエピソード。映画が娯楽の王様だった時代は、すごいことをやったんだなあと感心したものですが、そんなことが許される監督は、そうそういるものではなく、誰からも慕われる森永健次郎監督だったから出来たのだと思います。
ただ、森永健次郎監督は、歴史に名を残した人ではありません。よくも悪くも無難な映画をとる人で、それだけに、いろんな人から重宝された監督だったようです。映画監督が、全て黒澤明だったら、映画館は、もう少し肩肘張った場所になっていただろうし、もっと早くにテレビに負けていた可能性がありますから。
そういうわけで、「月がとっても青いから」も、典型的なメロドラマでした。当時の女性たちが好んで見ただろうという映画でしたね。悲歌(エレジー)の女王と言われた菅原都々子の一番の大ヒット作が、悲歌(エレジー)でなかったということが、それを物語っています。やはり大衆が求めるものは、明るくて楽しい映画であり、テンポのよいポップな歌なのでしょう。
それから映画「月がとっても青いから」には、草軽鉄道の勇姿が見られる数少ない映画でもあります。
つづく。
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