2023年12月28日

母の思い出 その5

 私が三歳になった頃、母親が妊娠した。そして弟が生まれた。私は、母と別れて、父・祖母と暮らすことになった。母は、生後三ヶ月の弟を連れて、単身赴任で例の漁村に去って行ってしまった。三歳九ヶ月になった私は、厳格な父親と、口うるさい祖母と生活することになり、昼間は、子守では無く保育所の世話になることになった。環境がガラッと変わってしまったのである。

 不思議なことに父は、母と違って大げさな礼儀作法を強制せず、最低限のテーブルマナーしか要求しなかった。そのかわりに、それができなかったら殴られた。

 箸のもち方がダメだったり、食卓に肘をついてしまうと、遠慮無しに叩かれた。それが連日続いた。そのために父が動く度に条件反射でびくっとした。

 母は礼法に厳しかったが、暴力をふるったことが無かったので、この違いに戸惑った。当時の私は、なぜ父親に殴られたかよくわからず、よく分からなかったから何も理解せず、そのためにまた父に殴られた。

 父は「なぜ言うことをきかない」と怒ったが、それがどういう意味かもわからなかった。怒られる理由がわからないのだ。だから余計に怒られるという負のスパイラルに陥っていた。

 理由も分からずに、ただ父に殴られることが怖くて、毎日びくびくして生活していた。おまけに難聴であったために父親の言っていることの一割も聞き取れなかった。

 何も分からずに殴られて、何をして良いわからず、ひたすらビクビク・オドオドする毎日だった。ただ卑屈になっていった。当然のことながら最低限のテーブルマナーは身につかなかった。


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 母が、教えた難しくも大げさな礼法は、二歳くらいから覚えることができたのに、四歳の私に最低限のテーブルマナーは身につかなかったのは、皮肉である。

 教育のプロであった母と、そうでなかった父の教育力の差なのか? それとも先祖代々百姓の家系であった父と、貴族を先祖にもつ母の家系の違いなのか? あきらかに両者には、幼児に対する考え方が違っていた。教育スキルの違いがあった。

 母のしつけは、厳しかったが完璧を求めなかった。出来て無くても、行動しようとする意思があれば、褒められた。厳しくとも結果は求められてなかった。頑張ってさえいれば、それでよしという躾(しつけ)だった。

 それに対して父のしつけは、最低限を要求するものであったが、出来てなければ、容赦なく怒鳴られた殴られた。そのせいで私は、誰かが何気に手を上げると条件反射でビクッとなって頭をかかえるようになり、これが二十代後半まで抜けなかった。

 信じられないことだが、昭和三十年代に生まれ育った子供たちなら、大なり小なり、こういう躾(しつけ)を体験したように思う。ただ、私の父のやり方は、当時の常識から考えても少しばかり度が過ぎていた。しかし、それを小学校の先生に訴えても、先生からの回答は
「立派なお父さんだなあ」
と絶賛するという今から考えると、かなりトンチンカンな反応だった。度は過ぎていても当時の常識の範囲内だった。

 ところが母のように大げさな礼法の躾(しつけ)をしている家庭は、みたことがなかった。そういう意味で母の子育ては、みんなと違っていた。それゆえに私は母に反抗するようになる。
「みんなを見習いなさい」
と怒られて、みんなを見習った結果、知らず知らずのうちに母に反抗するようになっていったことは、これも皮肉な現象なのかもしれない。


 ここで多少脱線したい。

 高校時代に、とある城下町の近くの学校に進学した。そして御先祖様が武士(長岡藩士)であったという家の同級生と友人になり、その友人の家に遊びにいったことがある。

 友人の家の門塀には、戊辰戦争の時の銃弾の跡があったりした。そして、その家にお邪魔したときに、何か懐かしい感覚を感じてしまった。
 立ち振る舞いから、お茶の入れ方から、廊下の歩き方など、普通と違っていた。その時に記憶の底に隠れていた、私の幼少期のことを思い出してしまっていた。三歳の頃に母親に躾けられた大げさな挨拶のことである。


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 挨拶ひとつをとっても違っていた。まず襖をあけて、そして閉める。その後に畳に膝をついて仁義をきる。小さい頃に習った礼法そのものだった。襖を開けた瞬間に挨拶するのが一般的というか、大多数だと思うが、元士族の家では、襖を閉めてから挨拶していた。時代劇でよくみる挨拶と同じであるが、現代人は、こういう挨拶をしない。

 だから友人の家におじゃましてたら、私が昔、母親から習ったことを思い出してしまった。そして、その挨拶によって、大昔のことを思い出してしまい、条件反射のように私も昔教わった挨拶を返した。すると
「楽にしてください」
「メガネはとらなくていいですよ」
と返ってきたが、友人の御家族たちが、背筋がビシッとして正座しているのに
「ハイそうですか」
と楽に出来るわけもなく、それなりの対応をかえしていると、どういうわけか私は、その友人の御両親に気に入られて、御馳走されたうえに、お土産までもたされ
「また遊びにいらっしゃい」
と再三誘われた。

 友人も「親がおまえを気にいったらしく、また連れてこいと言ってるんだ。また遊びに来ないか」と何度か言われたが、二度と行かなかった。
 まっぴらゴメンだった。
 緊張で肩が凝るからだ。
 気にしなければ、どうってことが無いのだが、どうしても気になって億劫になってしまう。

 そういえば、こんな光景があった。その友人には、六歳くらいの弟君がいたのだが、その弟君が、なにか行儀の悪いことをしようとすると、その母君が
「あら?」
と、一言言うだけで、弟君は、もとのシャキっとした。注意するわけでもなく、殴られるわけでもないのに、六歳の子供が母親の
「あら?」
の言葉にシャキっとするなんて、当時の私には信じられなかったので、あとでこっそりと
「行儀が悪いと後で殴られるのか?」
聞いてみたが、その私の問い掛けに友人や、その弟君は、不思議そうにしていた。

 聞けば、生まれてこの方、親に怒鳴られたり殴られたことがないと信じがたいことを言う。機動戦士ガンダムのアムロじゃあるまいし、最初は信じなかった。しかし、それは本当だったことを後で知った。元士族の家庭で、親に殴られたことのあるという友人は、私の知る限りいなかった。
 郷土史家の先生に聞いてみたら、伝統ある士族の家庭では、子供を叱るこことは、あまりしない。
「じゃあ、どうやって教育するんだよ?」
と思うのだが、その謎は、未だにわかってない。どうやら世の中には、科学でわりきれないことが、いっぱいあるらしい。



つづく

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2023年12月27日

母の思い出 その4

 いろいろ余計なことを書いてしまったが、何が言いたいのかというと、幼児の頃の私は、母親との接点が、かなり薄かったということを言いたかった。一日のほとんど、母と接してない。母と一緒にいる時間がほとんど無い。

 今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。

 そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。

 弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。

 特に礼儀作法にはうるさかった。かなりうるさかったはずなのだが、他に比較相手がいるわけでもなかったので、それが当たり前だと思っていたから、三歳九ヶ月までの私は、特に何の疑いももたずに、大げさで古風な礼法で朝晩の挨拶をした。

 寝る前も、朝起きたときも仰々しく正座に三つ指をついて、大げさに下宿先のおばさんに挨拶し、子守の老婆にも挨拶した。歌舞伎役者の子供のように仰々しい挨拶をする毎日だった。

 どうして、あのような仰々しい挨拶を強制されたのか、今となっては分かりようがないが、子供の頃に母が
「お母さんの子供の頃は、もっと挨拶にうるさかった」
と聞かされていたので、母の御先祖様が『華族』であったことと何か関係があったのかもしれない。母の親戚には著名な人が多く、戦前には朝鮮王朝にまで関わりがあったので、ことさら礼法にはうるさかったのかもしれない。

 挨拶にしても母は「会釈(えしゃく)」を挨拶と認めてなかった。会釈は会釈であって挨拶とは別物と考えていた。母にとって挨拶とは、ヤクザ映画・股旅映画で見られる「仁義をきる」に近いものであったような気がする。ひとつの様式美みたいなものだった。それを二歳にも三歳にもならない私に教えて実行させたわけだから下宿先のおばさんたちや、近所の老婆たちは、顔を崩して喜んだ。


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 二歳児・三歳児の幼児が、大人顔負けの礼法をする。それだけのことで私は誰からも可愛がられた。信じられないくらいにチヤホヤされた。そして、母親のいないところで、いろんな菓子をいただいた。母は、私に菓子を食べさせない人だったので、
「本当に食べてもいいの?」
と何度も念押ししていただいた。

 母親のしつけは厳しかったが、他の人には、さんざん甘やかされた。誕生日には、大きなホールケーキをいただいた。クリスマスにも大きなケーキとプレゼントをいただいた。

 今でも不思議に思う。昭和三十年代の佐渡島の僻地で、どうやって大きなホールケーキを調達したのだろうか? 近所にあるのは「よろず屋」が二軒だけの寒村である。

 そもそも当時の佐渡にホールケーキを売ってる店なんかあっただろうか? テレビも、冷蔵庫も、洗濯機も無く、電話は防災無線のようなもので、ダイヤル式でさえなかった漁村で、どうやって調達したのか? いったいどこでホールケーキを手に入れたのだろうか? 

 当時の登山ガイドをみると佐渡外海府は、知床半島と同列に紹介されるほどに辺鄙なところだった。もちろん車が走れる道路も完成してない。場所によっては船でいくしかなかった。そんな僻地で、どうやって豪華なホールケーキを調達したのか未だに不思議でならない。

 そもそも佐渡島で最も栄えた場所にある実家にもどっても、ホールケーキなんか見たことが無かったし、実家で食べる機会もなかった。誕生祝いも、誕生プレゼントももらったことがない。ところが四歳ほど若い弟は違っていたから不思議である。弟の世代は、各家庭で誕生会をやり、そこに呼ばれていった。弟もお返しに誕生会を開いて、友人を招待していた。四歳ちがうだけで、これほどに生活環境が、風景が違っていた。たったの3から4年くらいで2倍くらい豊かになっていった高度成長期という時代は、兄弟間に、これほどに差がつくのであるからすごい時代であった。

 それはともかくとして私がホールケーキを食べた唯一の記憶は、一歳から三歳にかけて、母親の下宿先で出された誕生ケーキとクリスマスケーキだけだった。昭和三十年から昭和四十年の佐渡島は、まだまだ貧しかった。そういう時代にホールケーキを御馳走になった。高価な玩具を頂いた。支払っている下宿料金みあってないものを色々いただいていた。

 つまり幼児だった私は、母の礼法教育によって、ものすごい『得』をしたのである。だから私が、そのまま大人になっていれば、もっとバラ色の別の世界線を生きていたと思うが、そうはならなかった。母親の礼法教育は、失敗するのである。


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 母がしつけに厳しかったことは、すでに書いた。
 そして幼い私が、母と接する時間が少なかったことも、すでに書いた。
 そして他の大人たちから可愛がられたことも書いた。

 この三つ条件が重なって、小さい頃の私は、母に対して反抗するようになる。
 それについて具体的に述べてみる。

 昔の小学校教員はひどく忙しかった。
 そのせいで母は夜遅くまで帰ってこなかった。
 運動会の準備だったり学芸会の準備があると、
 夜遅くまで帰ってこなかった。

 その結果、ただでさえ母親と接触する機会は少なかった私は、ほとんど母と接触しなくなる。で、学芸会当日になると、下宿のおばさんたちや、子守の老婆さんたちと、みんなで小学校の学芸会を見に行くことになる。そして座席に座って待っていると、教員の母親がステージでいろいろ作業をしているのがみえてくるのだ。

 二歳児・三歳児の私は、おもわず母親のところに駆け寄るのだが、それは3歳以下の幼児にとっては、ごく自然な本能だったと思う。しかし私は母から、ひどく怒られてしまう。信じがたいくらいに、ひどく怒鳴られてしまう。

「みんな行儀良く座って待っているのに、どうして、座って待ってないのか?」

 やさしく抱きしめてもらえると思っていた私は、激怒する母に、ひどく困惑してしまう。が、公務中の母の追求は厳しいものがあった。

「他の人をみてみなさい。みんなおりこうにしているのに、どうしてそれができないのか? みんなを見習いなさい」

 駆け寄れば、優しく対応してくれると思っていた二歳児・三歳児の私は、母親の怒気にみちた声にショックを受けて反省するのだが、その時の
「皆を見習いなさい」
という「しつけ」には、幼心に「なるほど」と納得するものがあったことは確かであった。そして、こういう事は、何度も何度も繰り返された。

 母親と接点がないがために、学校で働く母親をみつけると私は駆け寄るが、そのつど激怒されてしまう。そして
「みんなを見習いなさい」
と言われ
「みんなに合わせて行儀良く見学しなければならない」
と言うことを学習していく。そして周辺の人たち手本に生きていくことを自然と学習していく。

 もちろん、下宿のおばさんたちも、子守の老婆たちも、同じように諭してくる。同じように言ってくる理由は、私をしつけるためではなくて、私が母に怒られてショックを受けずにすむように、親切で教え諭してくれていた。
「お母さんに怒られるぞ」
と、優しく柔らかに諭してくれていた。それは、躾と言うより、私が母に怒られないように、私が母に叱られショックをうけないように、やさしく導いていたことは、子供心にひしひしと感じることができた。下宿のおばさんたちも、子守の老婆も、私ができるだけ母親に怒られずにすむように、導いてくれていた。そして、ショックをうけている私をとてもやさしく慰めてくれるのだ。慰めつつも教え導いてくれていた。

 それが子供心に分かってしまうからこそ、そういう大人たちの優しい忠告を素直に受け入れた。すると、まわりの大人たちは、
「良い子だなあ」
と、褒めてくれ、母にナイショで御菓子を買ってくれたりした。その結果、まわりを伺いながら大人の常識を身につけていき、普通の子供たちと共通した常識を身につけていくことが、できるようになっていくのである。


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 しかし、そのように学習していき、大人と同じような常識がもてるようになると、逆に自分の母親が、他の一般的な大人と違っていることに気が付いてくる。母親の行動が、ごく普通な大人たちの行動と合ってないのだ。その典型が大時代的な礼儀作法だった。仰々しすぎるのだ。

 もちろん仰々しいからこそ人々から尊敬されているのだが、三歳にも満たない幼児には、それは分からない。分かっているのは、まわりと違うという点だけである。

 それに気が付いた私は、徐々に仰々しすぎる挨拶をしなくなった。母に強制されても「嫌だ」と反抗するようになった。そして、私が可愛がられる原点であった「幼児らしからぬ礼儀作法」は、徐々に失われていった。母は、当時の私を「反抗期」だと思っていたらしいが、反抗期というより、
「皆を見習いなさい」
という事を単純に実行したにすぎなかった。

 これが後日、家族分断のきっかけとなるわけだが、それについては後述するとして、
「皆を見習いなさい」
「他の人を手本にしなさい」
というワードは、かなり危険な言葉だと私は思っている。このワードは、同調圧力とは違う。

 当時の私は、同調圧力で皆に合わせているつもりは、これっぽっちも無い。むしろ正しい事と自分なりに素直に納得していた。ごく自然に皆を見習うようになっていた。それが結果として母親に反抗する火種になっていった気がする。

 それを考えると「反抗期」って何だろう?と思う。子供としては、反抗しているつもりがないが、外から見ると「反抗期」に見えてしまう。幼児にしてみたら大人たちの教えた通りのことを実行しているだけなのに、「反抗している」と言われてしまっては混乱するしかない。大人からは反抗しているように見えていても、幼児に反抗心は全く無いからだ。


つづく

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posted by マネージャー at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月26日

母の思い出 その3

 私の生まれ育ったところは 佐渡島。
 昭和三十六年生まれなので、
 日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。

 昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。

 そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。


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 父親と別れて単身赴任していた。
 生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。

 生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。

 私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。

 今では数年の育児休暇が認められている教職員も、昔は生後三ヶ月から職場復帰を義務づけられていた。だから私は生後三ヶ月で、 いろんな人に預けられて育っていた。

 当時は、テレビもなければ、おもちゃも、絵本も無かったので、よく寝かされた。あまりにも寝かされたので、身長がどんどん伸びてしまった。小学校に入る前には、母親と身長差が無くなるくらいに大きくなって、ジャイアント馬場的な存在になっていた。

 二番目に背の高い同級生の身長も、私の肩より低かった。そのために、みんながしてもらっていたダッコをしてもらったことがなかった。それが幼児の頃の私の心を閉ざすことにもなった。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして幼児の頃の私は、ただひたすらに昼寝させられ続けたという事実があった。

 母親の下宿先で、朝起きて、朝食を食べたあとは、近所の老婆に預けられて、ひたすらに眠らされる。昔の漁村の屋敷には、ほとんど窓が無かったりするので、室内は薄暗くて寝るしかなかった。

 玩具・絵本・テレビなど一切無かったから寝る以外にやることがなかったのだ。それを生後三ヶ月から三歳になるまで続けたわけだから、身長が伸びるのも当然といえば当然だった。

 もちろん夜も寝たので、運動なんかしてないし、体力もついてない。三歳までは、寝てばかりなので、知能も体力も、同年代に劣っていたと思う。遊び友達も兄もいなかったから、三歳までは引きこもりの時代だった。

 当然のことながら病弱だった。肺炎で一ヶ月学校を休んだこともあるし、遠足の前日に熱を出して、歯ぎしりしながら遠足を断念したこともあった。

 けれど寝てばかりいたので、身長だけがぐんぐん伸びた。誰より大きく育って身長が伸びた。そして大きく育ち、佐渡島の四歳児の健康優良児の大会では優勝して、当時としては高価だったブリキでできた車のおもちゃをもらった。それが生まれて初めてのおもちゃだったかもしれない。虫歯が無ければ県大会に出られたとも聞かされた。寝て大きく育ったのだ。

(ただし、大きくなって夜更かしをするようになったとき身長がピタリと止まってしまった)

 ちなみに母は、かなりのチビだったから遺伝で私が大きくなったということはない。
 もちろん父も背は高くない。
 それなのに幼児の頃には、母の身長に追いつくほどに身長が伸びた。


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 それほど延々と昼寝を強制されてたわけだが、幼児の私が素直に従ったことに驚きを覚える。息子の子育ての経験からして、よく大人しく寝ていたものだと感心する。

 そして夕方頃になると、その家の子供たちが小学校から帰ってくる。
 すると私は、その小学生に遊んでもらった。

 昭和三十年代の佐渡島の漁村では、あちこちに子供たちが溢れており、道路や路地にあふれんばかりにウジャウジャといた。
 道路に自動車が走ることはなかった。だから道路こそは子供たちの遊び場だった。で、その子供たちが私の相手をしてくれた。
 そして、子供(小学生)たちは、みな母の教え子だったりする。
 当時の小学生は、みんな学生服に学帽をかぶっていた。
 私は、その姿をみるとダダッと駆けよっていき、頭をなでてもらい、一緒に遊んでもらっていた。

 今思えば、うざったかったのではないかと思う。しかし先生の息子ということで、無視できなかったのだろう。紙風船でバレーボールしたり、万華鏡をのぞいたり、石けんで作った手作りシャボン玉で遊んだりした。

 絵を描いて遊んだこともある。漁村だったせいか、みんな船の絵を描いてくれた。どういうわけか当時は、船のことを「トントン」と呼んだ。トントントンと航行するからである。当時の漁船は、焼玉エンジンで動いていたからトントントンという音を出しながら波を蹴っていたのだ。だからみんな船のことを「トントン」と言ってた。

 私は、「トントン」を画いてというと、みんな自分の家の漁船を画いてくれた。
 それがとてもかっこよく見えたものだった。
 みんなが画いたトントンは、かっこよかった。
 はやく大人になってトントンに乗りたいと思った。


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 そうこうしているうちに夕暮れになる。すると、みんな自宅へ帰って行った。日没になり、真っ暗になると母親が迎えに来て、下宿先に帰るのだが、その時に闇夜で見えた、お地蔵さんと墓石の不気味さに、なんともいえない霊気を感じたものだった。

 両墓制だった佐渡島の漁村の墓は二つある。一つは拝むだけの立派な墓。これはお寺にあった。もう一つは、海岸に転がっている崩れた墓。これは土葬の墓で、死体が土にかえると墓石は自然と崩れていく。

 これは死者を埋めるだけの墓なので、何年かたちと墓石が崩れてしまう。にもかかわらず、崩れた墓石を直すこともない。そのかわりにお寺には、立派な墓があって、その墓には立派なもので献花は絶えなかったりする。

 それに対して、土葬死者を埋めるだけの墓は、むざんな姿をしていた。で、そばには六地蔵があったりする。お地蔵様のところだけは、手入れが行き届いていた。

 それらの崩れた墓石を幼児たった私は、じっと眺めながら夜道を歩いた。二歳から三歳ぐらいだったはずなのだが、今でも、はっきりと記憶がある。記憶があるのは、その瞬間だけが、母と二人っきりの時間であったからだ。

 いろいろ余計なことを書いてしまったが、何が言いたいのかというと、幼児の頃の私は、母親との接点が、かなり薄かったということを言いたかった。一日のほとんど、母と接してない。母と一緒にいる時間がほとんど無い。

 今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。

 そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。

 弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。



つづく


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2023年12月24日

母の思い出 その2

 2023年4月24日、私の母が永眠した。
 佐渡島に住んでいる弟から連絡があった。
 八十八歳だった。
 その母について語ってみようと思う。


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 私の母は、華族・伯爵家(広橋家・藤原氏の一族)の血をひいている。祖父は画家。曾祖父は女学校の校長。その前が広橋家(貴族・華族)の当主だった。朝鮮王族とも関係があったらしいが、よくは知らない。

 私が物心ついた頃は、そういう雰囲気は全く見せなかった母だったが、私が幼少の頃には、その面影が少し残っていた。

 話はとんでしまうが、昭和時代の田舎の小学校に多数存在していて、平成・令和時代には滅びてしまったものを御存知だろうか? それは
「レーホー室」
である。昭和時代の田舎には、創立八十周年とか、九十周年といった木造校舎の小学校が、まだ沢山あった。その百年近い木造校舎には、かならず「レーホー室」なるものがあった。

 レーホー室というのは、百畳くらいの畳部屋のことである。戦前は、この畳の部屋で礼儀作法を小学校の子供たちに教えていた。つまり、レーホー室とは、礼法室であった。分厚くて古い郷土史などを調べると、まれに礼法室で礼儀作法の授業を行っているのを見ることができる。

 東京だと、スペースの関係で礼法室が作れなかったのか、外の運動場に畳をずらりと敷いて、礼儀作法の授業を行っている写真があったりする。麻布区史という郷土資料には、笄小学校(こうがいしょうがっこう)での礼儀作法教室の様子が白黒写真に残っている。畳を取り囲むように、数百人という大勢の子供たちが、礼儀作法を習っていた写真が郷土史の資料に残っている。

 つまり戦前では礼儀作法が重要視されていたわけで、これができてないと社会で苦労する思われていたわけである。

 しかし戦後にそういう教育は無くなってしまった。もちろん私も学校教育で礼儀作法を教わった記憶がない。それで苦労したということはなかったし、そういう話を聞いたこともない。私は昭和三十六年生まれだが、少なくともその世代では、そういう教育を受けてないし、それで困ったこともない。





 長い前置きは、このくらいにして本題に入る。

 元教員だった母が死んで、まず思い出した記憶は、大げさな挨拶だった。子供心に
「なんて大げさな」
と、こっちが赤面するくらい大げさであった。

 たとえば、よその家に出かけたときなど、出会って軽く会釈する。ふつうなら挨拶は、それで終わるはずなのだが、母の場合は違っていた。その後にご自宅にあがらせてもらったあとに、ひざまずき、深々と口上を述べるのである。
 いったい、どういう礼儀作法なのだろう?と不思議に思ったものであるが、大人になって見た時代劇の股旅者(ヤクザ)の映画を見て
「これだ!」
と思ってしまった。

 この「お控えなすって」と言うシーンを見ることによって全て納得してしまった。母は、仁義をきっていたのではないかと。だから子供心に大げさに見えていたと。で、この大げさな挨拶に、妙に納得したものだった。

 僻地の民家に下宿するわけだから、そのつど「お世話になります」と、それなりの仁義をきっていたと思えば納得することが多い。
 そして、生まれたばかりの私に、そういう仁義の切り方を教えた理由もわかる。なぜならば、それによって私は、とても可愛がられたからだ。

 しかし、父も、二人の弟も、母の大げさな挨拶を見てない。私が六歳くらいになった頃に、母は大げさな挨拶をしなくなっていたからだ。そして、その原因は私にある。私が母に反抗して大げさな挨拶をすることを拒否したからだ。

 反抗心で母に逆らったわけではない。自分自身で判断して逆らっていた。と、書くといかにも偉そうな存在に見えるが、そうではない。誰でも陥る罠にはまっただけだった。どの子供にも当てはまる罠が、世の中には存在する。それをこれから説明して、子育てについて考えてみたい。


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 子育てをして愕然とすることは、男の子と女の子の差である。一般的に言って女の子の方が成長がはやく、挨拶もきちんとできる。
 逆に男の子は挨拶ができない。どういう訳かできない子供が多い。うちの息子もその例にもれなく、挨拶ができない一般的な子供であった。

 私は、幼児連れ家族をターゲットにした宿を経営しているが、そんな例を飽きるほど見ている。どうしても男の子は、挨拶ができない。もちろん、私も例外では無い。私も小さい頃には挨拶ができなかった。

 しかし、そんな私も例外期間があった。

 信じられないことだが三歳くらいまでは、大人も驚くような大げさな挨拶ができていた。寝る前には、大人たちの前に出て、正座して三つ指をつき
「お先に失礼いたします。おやすみなさい」
と、深々と挨拶して寝床に入った。

 二歳児の頃だったろうか?
 三歳児の頃だったろうか?
 はっきり私の記憶に残っている。

  ちなみに私の生まれ育ったところは 佐渡島。昭和三十六年生まれなので、日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。

 昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。

 そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。

 父親と別れて単身赴任していた。生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。

 生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。

 私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。


つづく


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