2024年06月20日

修学旅行の定番、枕投げは滅びてしまった?

 息子が 修学旅行から帰ってきた。車で迎えに行ったら巨大な袋にたくさんのお土産を買ってやってきた。 お小遣いの上限が 7000円だったためか、ずっと雨に降られたためか、 お金を使う時間がなかったために、旅行の最後にドタバタとお金を使うハメになったらしい。 そのために最後の最後に大量のお土産を買うしかなかったようだ。

  7000円の小遣い というのは、ちょっと多いように感じるが、実はそうでもない。この 7000円の中には、2回の昼食代と、神社仏閣の拝観料、移動のための電車賃。そして、その他もろもろの費用を含んでいるからだ。鎌倉は暑いだろうから水分補給のための料金も必要だろうし、 チャンスがあれば、けんちん汁や 抹茶をごちそうになったり、 お賽銭や 朱印帳の 費用を考えたら 7000円では足りないのではないかと 思っていた。

  ちなみに息子の修学旅行は、班別の自由行動になっている。 5・6人の班で子供達だけで移動することになっている。先生がついてくるわけではない。しかも、GPS付きのキッズ携帯や、デジカメの持ち込みは禁止されている。おやつも持ち込んではいけないし、友達との交換も禁止されている。私の子供の頃とは、かなり違ったルールなのに驚いた。

 なかでも面白かったのは、カメラのルールである。自分のカメラの持ち込みは禁止されていた。カメラは、学校から渡され、それしか使用してはいけない。そのうえ集合写真しか撮ってはいけないことになっている。風景写真も、誰か一人を撮影するのも禁止だ。

 私の子供の頃は、カメラは高級品でそんなもの持っている子供はいなかった。だから先生が子供たちの写真をバチバチ撮っていた。それを現像したものを廊下にはりだして、各自が写真を注文し、それを先生が、焼き増しをして各自に配った。

 先生は、子供たちのアップ写真を大量に撮影した。で、写真にやたらと写る子と、そうでない子がいた。カメラを向けると、だだーっと駆け寄ってくる子供もいれば、カメラから逃げる子供もいるからだ。私は逃げるほうだった。だから私の写真は、一枚もなかったはずだった。

 ところが、そんな私を先生は、遠くから望遠レンズで狙って撮影した。それが偶然にも最高の画像となって焼き上がった。その結果、みんなが私が写った写真を競って注文するというハプニングまでおきた。私は、自分の写真に興味が無かったので買ってない。私が買ったのは風景写真だけである。それを先生と友達は不思議そうにしていた。





 そんなことは、どうでもいいとして、息子のやつは修学旅行から帰ってすぐに寝た。旅行中、2時間しか寝てなかったらしい。二人部屋なのに寝られなかったそうだ。私が子供の頃は、100人の大部屋だった。枕投げもやったし、布団の引っぺがしもやったし、プロレスもした。ドリフターズの8時だよ全員集合を真似てコントもやった。先生には何度も怒鳴られたものだった。でも、ぐっすり寝れた。

 それに対して息子は、プリンスホテルの豪華な二人部屋。にもかかわらず寝られなかった。友達と一晩中、しずかにお喋りしていたらしい。枕投げも無いし、布団の引っぺがしも無いし、プロレスも無い。コントもやってない。先生にも怒鳴られてない。女子風呂をのぞきに行って怒られることもない。なのに寝れなかったとは、それで良いのか?と思ったが、まあ、これが令和時代の修学旅行なのだろうなあ。


つづく

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posted by マネージャー at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月19日

群馬県には水族館が無い?

 今日は息子のやつは、 修学旅行 水族館に行ってるはずだ。信じられないことに 群馬県には 水族館がない。そのせいか私の嫁さんも含めて みんな 水族館が大好きだ。特にイルカのショーが好きらしくて、 これには目をキラキラさせて 眺める人が多い。

 私は佐渡島 出身なのでイルカは特に珍しくはない。 佐渡島から新潟市につながる航路を 佐渡汽船で何回か乗ると、時々 イルカの大群に出会うことがある。 最初は一匹で出現する。それを見た瞬間、
「あれ?気のせいかな?」
「目の錯覚かな?」
と思うのだが、そのうち二匹くらいが海面から顔を出す。すると誰かが
「イルカだ!」
と叫び出す。その頃になると、イルカたちは、大群で現れて佐渡汽船をぐるりと囲んでいたりする。

 佐渡汽船の速度は速い。その速い船を追い越すようにイルカたちは泳いでいくのだ。その泳ぎ方は魚の泳ぎとは違っている。魚雷のような感じで進んでいく。そしてピタッと止まって佐渡汽船を見上げたりする。





 こういう光景は、佐渡汽船では、決して珍しくは無い情景である。それを何度か体験している私にとってイルカショーは、あまり興味のもてるものではないが、群馬県民にとっては、すごく楽しいショーになるのだと思う。

 しかし誤解してはいけないが、日本海のイルカたちは、イルカショーのように跳んだりはねたりしない。イルカショーのようなイルカの姿は見たことがない。私の知ってる天然イルカのイメージは、魚雷のように進む姿と、100匹以上の大群で佐渡汽船を取り囲むイルカの群れたちである。

 跳ぶというならトビウオだろう。
 トビウオなら本当に跳ぶ。
 佐渡汽船の甲板から何度も見たが、本当に跳ぶ。
 いや、飛んでいる。
 10メートルといったみみっちい距離では無い。
 100メートルくらい飛ぶ。
 へたしたら200メートルくらい飛んでしまうかもしれない。
 しかもカモメなんかよりも滅茶苦茶はやい。
 そのうえ佐渡汽船の舷側のそばをスーっと追い越して飛んでいく。
 ものすごい速度で飛んでいくのだ。




 まあ、そんなことは、どうでもいい。佐渡島民にとって、そういう光景は少しも珍しくないので、島民たちは船の甲板にあがらない。船が出航したら100円で借りてきた毛布にくるまって睡眠をとる人が大半だ。

 しかし、私が小学校に入る前。つまり昭和40年頃の佐渡汽船では、そういうワケにはいかなかった。当時はカーフェリーではなかった。コンテナ船だった。そして船そのものが小さかったために、佐渡汽船に乗る乗客たちは、船室からあふれて甲板で縮こまって乗っていた。もちろん甲板に備え付け椅子にも座れない。だから持参した
ゴザを甲板に敷いて我慢した。

 船室は、船室で地獄だった。あちこちにゲロを吐くためのアルマイトの桶が置いてあって、みんなゲーゲー吐いていた。その臭いが室内に充満して、つられてゲロを吐く人たちが続出した。それを嫌う人たちは甲板にゴザを敷いて我慢するのだが、甲板でも吐く人が続出する。吐く時は海に吐いた。そのせいか船の舷側には魚たちがけっこういたし、トビウオも飛んでいた。イルカたちも見かけたが、なんの感想もわかなかったことを覚えている。

 当時の佐渡汽船は小さい船(コンテナ船)が多く、よく揺れた。

 当時の庶民は、二等の切符を買い、二等船室に入るのだが、これがくせもので、当時の船のディーゼルエンジンの振動が凄くて、床がマッサージ機のように揺れていた。それを避けようと船の先頭にいくと、波の衝撃に震度4くらいの地震が続く客室だった。だから、御客さんは、みんなゲーゲー吐いたのだ。そして密閉された客室に、あの香りが充満する。だったら多少の海水を浴びても甲板でよい・・・ということになる。

 そんな佐渡−新潟間を、幼少の頃の私は、母に連れられて何度も往復した。新潟には、母の親戚が大勢いたからだ。だからトビウオも、イルカも、カモメも、ブリ・マグロの大群も少しも珍しくなかった。


 ちなみに昭和40年代の佐渡島の北側では、船のことを『トントン』と言った。焼き玉エンジンで動く漁師船ばかりで、トントントン・・・と動いたからだ。しかし昭和40年頃の佐渡汽船ときたら全く違っていた。だから佐渡汽船の船のことを島民は、『トントン』とは言わず、佐渡汽船とよんでいた。佐渡汽船と『トントン』は別物であったのだ。

 ちなみに佐渡の南では、船のことを『トントン』とは言わなかった。『たらい船』といっていた。しかし、現在の佐渡では『たらい船』を『ハンギリ』というらしい。昔から『たらい船』のことを『ハンギリ』と言っていたと観光協会が強弁しているが、これはかぎりなく怪しい。そんな話は聞いたことが無い。私は、眉唾だと思っている。

 『たらい船』こそは、佐渡小木地方独特の船だと思う。あれこそは、佐渡のオリジナルだろう。で、よくYouTubeなんかに『たらい船』の動画がアップされているが、あれは観光用の姿であって、実際に使われている『たらい船』は、ちょっと違ったりする。



 本物のの『たらい船』には大きな竹竿を5本くらい尻尾に付けて船を安定させてある。で、小型のエンジンがついていたりするのだ。と言っても漁をする時は、エンジンは使わない。あくまでも手こぎで移動する。自宅から漁場に移動する長距離移動の時だけ、エンジンを使うのである。で、どうして『たらい』なのかというと、岩に潜んでいるサザエ・アワビ・タコを大量に捕るには、タライこそが最適だからだ。特にタコは金になるので、昔はタコ捕りの名人がいたら、求婚が殺到したという。


 最後に誤解のないように言っておくが、現在の佐渡汽船の船は、カーフェリーであるために豪華客船のように静かで揺れない。だから快適な船旅ができることだけは言っておく。

つづく

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posted by マネージャー at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

息子の修学旅行

 今日は、 小学6年生となった息子が 修学旅行に出かけている。
 場所は 鎌倉。 建長寺と鶴岡八幡宮と 源頼朝の墓と大仏を 自由行動で見学をすることになっている。
 まあ 無難なチョイスかもしれない。
 そこで事前に息子に 見学先のことを詳しく説明しておいた。

 まず建長寺の説明をした。
 建長寺というのは 禅宗のお寺である。
 鎌倉には禅宗のお寺がいっぱいあるけれど、その理由を説明しておいた。





 鎌倉時代の武士たちはある悩みを持っていた。 それは自分たち武士が戦いによって殺生することによって極楽に行けないのではないかという悩みである。 その悩みに対して明確な回答を示したのが、 禅であった。禅をすることによって仏になれるという理論は、武士たちにとって強烈な救いになったのだ。 なにしろ人を殺しても仏になれるというのだ。武士にとって、これほどありがたい宗派はない。しかも、ここから剣禅一如という言葉さえ生まれるくらいである。

 これを説明すると 息子は多いに唸った。武士たちが戦争という戦いに受ける 殺生に悩んでいたということに衝撃を受けたようだった。 なぜ 衝撃を受けたか、その理由はわかる。薄っぺらな歴史の教科書には、武士たちの悩みなど書いてないからだ。 しかし今も昔も人々は普通に悩むのである。 だから 大きな 宗教施設が世界中に存在するのだ。

  ちなみに 建長寺が、けんちん汁の本場だということも教えて、せっかく建長寺に行くのだから、みんなで、けんちん汁を食べたらどうだろうと提案したが、 息子は悲しそうに首を振った。 おそらく 小遣いが限られているためにそういう贅沢はできないのだろうと察した。

  建長寺には、 抹茶やお菓子も食べられるコーナーがあったと記憶している。 確か 500円だったと思うのだが、 これも息子の 少ない小遣いでは、 体験することは不可能だろう。 第一、 単独行動が許されないわけだから、一人 抹茶を飲むという体験も難しいかもしれない。

 本当なら、本場のけんちん汁を食べてもらいたいし、抹茶を作法によって体験してもらいたい。それは修学旅行では無理だろうというのは理解している。


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 と、ここまで書いて、 私の小学校時代(昭和48年)の修学旅行を思い出した。 私は佐渡島に生まれて そこで育ったのだが、 小学校の修学旅行は新潟市だった。当時も自由行動の時間はあったが、それはデパート内に限られていた。 そして 当時の小学生の小遣いは、上限が1000円と決められていた。当然のことながら1000円では大したものは買えない。観光地の土産物の温泉饅頭の価格は、当時でも500円していた。つまり物価は今と大差が無いのである。

  そういうわけで デパートの中をウロウロしながら、何一つ買えるものがない私たち子供たちは、恨めしそうにデパートの商品を眺めて歩いていた。1000円という上限を決めておいてデパートでウロウロさせる当時の教師の非常識な計画の犠牲者となった子供たちは、何も買えずにショーケースのまえを眺めるしかなかった。私も恨めしそうに 定価 1000円の組み立て式ラジオを見つめていると、 どこかの小学校の修学旅行生が、 定価 1000円の組み立て式ラジオをガンガン買っていた。

 彼らは3000円の小遣いをもらっていた。
 よくよく聞いてみたら、私と同じ 佐渡島の小学校の修学旅行生だった。
 同じ佐渡島民であるにもかかわらず、私の小学校は小遣いの上限が1000円で、彼らの小学校は3000円だった。

 この差は天地ほどにも大きかった。
 彼らは何でも買えるが、1000円しかもってない私たちは何も買えない。

 どうしてそんなに差があったかというと、 3000円の小遣いをもらっていた子供達の学校が超田舎の小学校だった 。彼らは滅多に佐渡島の外に出る機会がないので、 PTA の 強い圧力で小遣いの上限が大幅にアップされていたのである。どうしてそんなことを知ってるかと言うと、私の母親がその小学校の教師だったからである。

 で、 偶然にも 私の目の前に私の母親が登場した。
 何という偶然だろうか。

 そして私が定価 1000円の組み立て式ラジオを買おうかどうか悩んでいることを知った母親は、なんと そのラジオを 買ってくれたのであった。

  昭和48年頃の家電製品は、総じて高額であった。 ラジオなんかも1万円以上していた。ただし 例外があって、 組み立てラジオだけは安かったのだ。理由は、物品税がかからなかったからである。昔は消費税というものはなくてその代わりに 物品税 というのがあった。家電製品には30%ぐらいの税金がかかっていたので、 安く手に入れるためには 組み立て式を買うしかなかったのである。 組み立て式 ならば、部品しか入ってないので 物品税がかかってなかったのだ。

 そして修学旅行で手に入れた小さなラジオは、私の宝物となった。組み立て式というのがよかった。実家にはラジオ工具がそろっていたので、組み立ては簡単にできた。そして組み立てに熱中した私は、通信販売であらゆる部品を買いあさって、テスターや照度計なんかを作ってはよろこんでいた。当時はネットバンキングなんかなかったので、代金は切手を郵送して支払った。切手だと5パーセント高かったが、小学生の私には、それしか支払う方法が無かった。





 話がそれた。
 息子の修学旅行のことである。

  息子は 建長寺の次は 源頼朝の墓に行くと言った。その後に 鶴岡八幡宮に行くらしい。 そこで 見学のポイントを教えることにした。 源頼朝の墓を見るポイントは墓の大きさである。鎌倉幕府を開いたほどの大物であるのに関わらず、お墓がやたらと小さいのだ。

 逆に鶴岡八幡宮はかなり巨大である。 八幡宮といえば 応神天皇を祀っている神社である。 まあ、 応神天皇の、お墓みたいなものだ。もちろん応神天皇陵という巨大な古墳も 大阪方面にある。日本で2番目に大きい古墳である。 エジプトのピラミッドよりもはるかにでかい。 それに比べて 源頼朝の墓 は 何と小さいことか。 ここが 見学のポイントである。

 どうしてそんなに小さいのか?  江戸幕府を作った徳川家康の墓に至っては、もっと 巨大なのにも関わらず頼朝の墓は やたらと小さい。 その理由は平家物語を読むとわかる。「源氏と平家」という言葉を理解すればよくわかるのだ。

 平家というのは、平の清盛の一族のことを言う。
 平氏とは イコールではないのだ。
 平氏の中のごく一部の一族を平家というのだ。

 では源家という言葉はあるだろうか?
 実はないのだ。
 源氏はあっても源家という言葉はない。
 源頼朝の一族一派というものは存在しないのである。
 つまり頼朝の直接の家来というのは、ほぼいないにも等しい。

 鎌倉武士団というのは、源氏もいれば平氏もいる。そもそも北条政子からして平氏である。つまり頼朝とは、鎌倉武士団とって単なる神輿みたいなものであって、強力な権力があったわけではなかった。だからお墓が小さいのだ。だから頼朝は、義経を殺さざるを得なかった。そうしないと鎌倉武士団を制御できなかった。頼朝は、ぎりぎりのところの神輿にのっかっていたのである。

 この辺を息子は上手にお友達に 解説できたであろうか?

 この後に 鶴岡八幡宮に行ってるはずなのだが、この八幡宮 というのは 戦いの神様としてもてはやされていた。何しろ 応神天皇のおじいさんが、ヤマトタケルなのだ。うちの息子はヤマトタケルから、名前を頂いている。結果として佐藤タケルになってしまったが、別に某俳優とは 何ら関係がない。そもそも息子が生まれる頃まで、我が家にはテレビの電波が届かなかった。そんな名前の俳優が、世の中に存在すること自体、 私も嫁さんも全く知らなかったのだ。

 まあ、そんなことはどうでも良い。

 その後は鎌倉の大仏にいっているらしい。鎌倉の大仏は奈良の大仏と比較するとよくわかる。奈良の大仏が阿弥陀如来像なのに対して、鎌倉の大仏はしっかり座禅を組んでいる。極楽浄土に救いを求めるための奈良の大仏と違って、しっかり座禅をしている姿が、いかにも 鎌倉っぽくて清々しいのが特徴である。まあこの辺は、奈良を旅して両者を比較しないとよくわからないかもしれないが。

 息子のやつは今頃、 ホテルでグースか寝てるのだろうか?
 明日は、 水族館をみるらしい。
 海無し県の群馬では、修学旅行での水族館は欠かせないものらしい。
 嫁さんが羨ましがっていた。

 
つづく

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posted by マネージャー at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする