今日は、 小学6年生となった息子が 修学旅行に出かけている。
場所は 鎌倉。 建長寺と鶴岡八幡宮と 源頼朝の墓と大仏を 自由行動で見学をすることになっている。
まあ 無難なチョイスかもしれない。
そこで事前に息子に 見学先のことを詳しく説明しておいた。
まず建長寺の説明をした。
建長寺というのは 禅宗のお寺である。
鎌倉には禅宗のお寺がいっぱいあるけれど、その理由を説明しておいた。
鎌倉時代の武士たちはある悩みを持っていた。 それは自分たち武士が戦いによって殺生することによって極楽に行けないのではないかという悩みである。 その悩みに対して明確な回答を示したのが、 禅であった。禅をすることによって仏になれるという理論は、武士たちにとって強烈な救いになったのだ。 なにしろ人を殺しても仏になれるというのだ。武士にとって、これほどありがたい宗派はない。しかも、ここから剣禅一如という言葉さえ生まれるくらいである。
これを説明すると 息子は多いに唸った。武士たちが戦争という戦いに受ける 殺生に悩んでいたということに衝撃を受けたようだった。 なぜ 衝撃を受けたか、その理由はわかる。薄っぺらな歴史の教科書には、武士たちの悩みなど書いてないからだ。 しかし今も昔も人々は普通に悩むのである。 だから 大きな 宗教施設が世界中に存在するのだ。
ちなみに 建長寺が、けんちん汁の本場だということも教えて、せっかく建長寺に行くのだから、みんなで、けんちん汁を食べたらどうだろうと提案したが、 息子は悲しそうに首を振った。 おそらく 小遣いが限られているためにそういう贅沢はできないのだろうと察した。
建長寺には、 抹茶やお菓子も食べられるコーナーがあったと記憶している。 確か 500円だったと思うのだが、 これも息子の 少ない小遣いでは、 体験することは不可能だろう。 第一、 単独行動が許されないわけだから、一人 抹茶を飲むという体験も難しいかもしれない。
本当なら、本場のけんちん汁を食べてもらいたいし、抹茶を作法によって体験してもらいたい。それは修学旅行では無理だろうというのは理解している。
と、ここまで書いて、 私の小学校時代(昭和48年)の修学旅行を思い出した。 私は佐渡島に生まれて そこで育ったのだが、 小学校の修学旅行は新潟市だった。当時も自由行動の時間はあったが、それはデパート内に限られていた。 そして 当時の小学生の小遣いは、上限が1000円と決められていた。当然のことながら1000円では大したものは買えない。観光地の土産物の温泉饅頭の価格は、当時でも500円していた。つまり物価は今と大差が無いのである。
そういうわけで デパートの中をウロウロしながら、何一つ買えるものがない私たち子供たちは、恨めしそうにデパートの商品を眺めて歩いていた。1000円という上限を決めておいてデパートでウロウロさせる当時の教師の非常識な計画の犠牲者となった子供たちは、何も買えずにショーケースのまえを眺めるしかなかった。私も恨めしそうに 定価 1000円の組み立て式ラジオを見つめていると、 どこかの小学校の修学旅行生が、 定価 1000円の組み立て式ラジオをガンガン買っていた。
彼らは3000円の小遣いをもらっていた。
よくよく聞いてみたら、私と同じ 佐渡島の小学校の修学旅行生だった。
同じ佐渡島民であるにもかかわらず、私の小学校は小遣いの上限が1000円で、彼らの小学校は3000円だった。
この差は天地ほどにも大きかった。
彼らは何でも買えるが、1000円しかもってない私たちは何も買えない。
どうしてそんなに差があったかというと、 3000円の小遣いをもらっていた子供達の学校が超田舎の小学校だった 。彼らは滅多に佐渡島の外に出る機会がないので、 PTA の 強い圧力で小遣いの上限が大幅にアップされていたのである。どうしてそんなことを知ってるかと言うと、私の母親がその小学校の教師だったからである。
で、 偶然にも 私の目の前に私の母親が登場した。
何という偶然だろうか。
そして私が定価 1000円の組み立て式ラジオを買おうかどうか悩んでいることを知った母親は、なんと そのラジオを 買ってくれたのであった。
昭和48年頃の家電製品は、総じて高額であった。 ラジオなんかも1万円以上していた。ただし 例外があって、 組み立てラジオだけは安かったのだ。理由は、物品税がかからなかったからである。昔は消費税というものはなくてその代わりに 物品税 というのがあった。家電製品には30%ぐらいの税金がかかっていたので、 安く手に入れるためには 組み立て式を買うしかなかったのである。 組み立て式 ならば、部品しか入ってないので 物品税がかかってなかったのだ。
そして修学旅行で手に入れた小さなラジオは、私の宝物となった。組み立て式というのがよかった。実家にはラジオ工具がそろっていたので、組み立ては簡単にできた。そして組み立てに熱中した私は、通信販売であらゆる部品を買いあさって、テスターや照度計なんかを作ってはよろこんでいた。当時はネットバンキングなんかなかったので、代金は切手を郵送して支払った。切手だと5パーセント高かったが、小学生の私には、それしか支払う方法が無かった。
話がそれた。
息子の修学旅行のことである。
息子は 建長寺の次は 源頼朝の墓に行くと言った。その後に 鶴岡八幡宮に行くらしい。 そこで 見学のポイントを教えることにした。 源頼朝の墓を見るポイントは墓の大きさである。鎌倉幕府を開いたほどの大物であるのに関わらず、お墓がやたらと小さいのだ。
逆に鶴岡八幡宮はかなり巨大である。 八幡宮といえば 応神天皇を祀っている神社である。 まあ、 応神天皇の、お墓みたいなものだ。もちろん応神天皇陵という巨大な古墳も 大阪方面にある。日本で2番目に大きい古墳である。 エジプトのピラミッドよりもはるかにでかい。 それに比べて 源頼朝の墓 は 何と小さいことか。 ここが 見学のポイントである。
どうしてそんなに小さいのか? 江戸幕府を作った徳川家康の墓に至っては、もっと 巨大なのにも関わらず頼朝の墓は やたらと小さい。 その理由は平家物語を読むとわかる。「源氏と平家」という言葉を理解すればよくわかるのだ。
平家というのは、平の清盛の一族のことを言う。
平氏とは イコールではないのだ。
平氏の中のごく一部の一族を平家というのだ。
では源家という言葉はあるだろうか?
実はないのだ。
源氏はあっても源家という言葉はない。
源頼朝の一族一派というものは存在しないのである。
つまり頼朝の直接の家来というのは、ほぼいないにも等しい。
鎌倉武士団というのは、源氏もいれば平氏もいる。そもそも北条政子からして平氏である。つまり頼朝とは、鎌倉武士団とって単なる神輿みたいなものであって、強力な権力があったわけではなかった。だからお墓が小さいのだ。だから頼朝は、義経を殺さざるを得なかった。そうしないと鎌倉武士団を制御できなかった。頼朝は、ぎりぎりのところの神輿にのっかっていたのである。
この辺を息子は上手にお友達に 解説できたであろうか?
この後に 鶴岡八幡宮に行ってるはずなのだが、この八幡宮 というのは 戦いの神様としてもてはやされていた。何しろ 応神天皇のおじいさんが、ヤマトタケルなのだ。うちの息子はヤマトタケルから、名前を頂いている。結果として佐藤タケルになってしまったが、別に某俳優とは 何ら関係がない。そもそも息子が生まれる頃まで、我が家にはテレビの電波が届かなかった。そんな名前の俳優が、世の中に存在すること自体、 私も嫁さんも全く知らなかったのだ。
まあ、そんなことはどうでも良い。
その後は鎌倉の大仏にいっているらしい。鎌倉の大仏は奈良の大仏と比較するとよくわかる。奈良の大仏が阿弥陀如来像なのに対して、鎌倉の大仏はしっかり座禅を組んでいる。極楽浄土に救いを求めるための奈良の大仏と違って、しっかり座禅をしている姿が、いかにも 鎌倉っぽくて清々しいのが特徴である。まあこの辺は、奈良を旅して両者を比較しないとよくわからないかもしれないが。
息子のやつは今頃、 ホテルでグースか寝てるのだろうか?
明日は、 水族館をみるらしい。
海無し県の群馬では、修学旅行での水族館は欠かせないものらしい。
嫁さんが羨ましがっていた。
つづく
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