2025年03月27日

スポーツ教室について語ってみる その4 ワンデルン・シューレ( 移動教室)

 映画「男はつらいよ」 のシリーズを見た人はいるだろうか?  いわゆる 寅さん映画ですけれど、48 作もあります。このシリーズの最高傑作は 第2作目だと思っています。第2作目がシリーズ 最高傑作だと思っています。2作目のストーリーは簡単で、高校時代の恩師である坪内散歩先生の娘さんに惚れて最後に振られるという ワンパターンな物語展開 なんですが、 これが最高に面白い。





 それはともかくも、 今回は私の職業を紹介したいと思います。 私は、ユースホステルという特殊な宿屋をやっています。ユースホステルというのは、 ドイツの小学校の教師が始めた運動で、教室から野外に出て勉強を教えることから始まっています。 これを ワンデルン・シューレ( 移動教室)と言うんですが、 その補助のために全国の小学校を格安の宿にして、子供たちを宿泊させるたのがユースホステルの始まりです。

  もっと簡単に言うと、ハイキングしながら勉強しようという運動です。 リヒャルト シルマン先生は、教室で勉強するよりも ハイキングしながら勉強した方が子供たちの勉強がはかどることを発見しました。 これを ドイツの教師たちに訴えると、あっという間に 全国から賛同者が集まり、わずか数年でドイツ 全土にユースホステルが出来上がり、 そのネットワークが全世界に広がったわけです。

  実はヨーロッパでは、ギリシャ時代からハイキングすると、学問がはかどることが分かっていました。 机と椅子に腰掛けて勉強するよりも、散歩しながら 学問をした方がはかどるということを彼らは ギリシャ時代から知っていたわけです。特にアリストテレスは、散歩することによって学問がはかどることを実感していて、彼らの授業は散歩とともにありました。 人々はそんな彼らを「 逍遥(散歩)学派」 と言ったぐらいです。

  西洋演劇で有名な、坪内逍遥は、アリストテレスを元祖とする逍遥(散歩)学派から、名前を頂いています。

 ここで思い出してほしいのが、映画「男はつらいよ」シリーズの最高傑作とも言える第2作「続・男はつらいよ」です。年から年中 散歩 ばかりしているくせに、おバカな寅さんが、 恩師のところに遊びに行くわけですが、その恩師の名前が「 坪内散歩先生」ですから、山田洋次監督も皮肉が効いています。


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(寅さんと坪内散歩先生)


 皆さんも試して欲しいんですけれど、散歩しながら勉強すると非常に具合がよい。クリエイターならなおさらです。想像力が倍増する。それに人間は1時間机に座っていることが辛いものですが、1時間の散歩は全く辛くない。だから散歩しながら考え事をすると何でもわいてくる。それを ドイツの小学校の先生であるシルマン先生は、体験的によくわかっていたので、 ユースホステル 運動を提唱したわけです。

 しかも、それがたったの数年で、全ドイツに伝わって、全ての教師が賛同し、全国にユースホステルが誕生したわけですから、 当時の ドイツ人は、散歩の効用をそれぞれ実感していたわけです。でなければ あっという間に全ドイツに何百軒もユースホステルが誕生するわけがない。全ヨーロッパに広がるわけがない。イギリスでも、フランスでも、先進諸国ならどの国でも、短期間に広がっていった。唯一の例外は日本だけです。日本では、なかなか広がらなかった。なので、ワンデルン・シューレ( 移動教室)も最後まで日本には定着しなかった。

  ワンデルン・シューレ( 移動教室)とは、なにかというと映画「サウンドオブミュージック」を イメージしてもらえば良いかもしれません。 あのイメージを日本に定着させようとして、私はユースホステル運動に身を捧げてきました。なので25年前に 北軽井沢にユースホステルをオープンしてから、15年間、毎日のようにネイチャー体験ツアーをやっていました。参加費は保険と実費のみなので、かなり格安だったと思います。

 これをやめたのは息子が生まれてからです。

 子育てで、それどころではなくなった。息子のために、毎日のように浅間牧場あたりに出かけて、ワンデルン・シューレ( 移動教室)を実行してきました。道中に看板があると、その文字を 2歳か3歳の息子に教えました。だから息子は3歳くらいから、看板にある、ひらがなと漢字が読めるようにはなっていた。なので幼稚園に入れる 気など全くなかった。で、保育園に入れてみたら、そこは「こども園」という名前の幼稚園だった。





 なんだか 詐欺にあったような気分でしたが、ガンガン休ませて、今まで通りワンデルン・シューレ( 移動教室)を行うと思ったらそうはいかなかった。幼稚園の先生に休みすぎていると怒られてしまったからです。仕方がないので午前中だけ幼稚園に行かせて、 給食が終わった頃に迎えに行って、午後からハイキングに出かけるという スタイルを取っていたのですが、 それも先生にはご不満だったようで、
「 成長が遅れているので 発達心理学の先生に見てもらいなさい」
と言われてしまう。

  確かに息子の成長は遅れていた。でも、それは個性の一部だと思って放置していたのですが、 担任の先生にしてみたら 心配の種だった。で、専門の先生に見てもらうわけですが、専門家は問題ないという。しかし幼稚園の先生は納得してない。毎年、しつこく「成長が遅れているので休まないで」と言われた上に、怪我をしたり、 たんこぶをつくって帰ったり、かまれたあとがあったりして、いじめられているらしいこともわかってきた。おまけに運動能力も低くて、 みんなとかけっこをしたがらない。

 こうなると さすがの私も考えざるを得なくなった。
 それまでの私は、勉強ができなくても良い。
 運動ができなくても良い。
 のびのびと育って幸せな人生を 送ってほしい。

  そう考えていたのですが、のびのびと育って幸せな人生を送るためには、運動も勉強も多少はできなければ、だめなんですよね。でないといじめられてしまいます。最初は成長が遅れていても、個性 なんだからほっといてくれと思っていたんですけれど、そういうわけにはいかなかった。

 仕方がないので、勉強と運動をさせることにしたのですけれど、 まず勉強の方は、 脳科学の先生が監修している「ポピー」を2部づつ買ってきて、あえて同じ問題を繰り返してやらせたわけですが、この繰り返しが効果をあげています。また脳科学者の「脳力道場」というアプリケーションソフトを毎日やらせました。このソフトは ワーキングメモリを増やすのに効果のあるソフトで、ワーキングメモリを増やすことによって、 あらゆる知能が発達することがわかっています。その結果、5歳のときに受けた知能検査(ウイスク)では、100から140の数値がでています。特に知的推理が140と最高レベルで高かった。次に高かったのが言語理解の120。逆に低かったのが処理速度で97。





 で、いわゆるギフテット(天才)と言われましたが、これは信じてなかった。どうしてかと言うと、本物のギフテットを見たことがあるからです。甥がギフテットなのですが、本物はレベルが違っている。甥っ子は小学生のうちに高校レベルだった。 自由にプログラミングをくんで遊んでいたし、小学生のうちからメルカリを使って商売をしていたり、株を買っていたりした。こういうのが本物のギフテッドだと思う。

 また、嫁さんの姪にも本物のギフテットがいた。中学校の百人一首の大会では、国語の先生数人を相手に戦って簡単になぎ倒したと聞いています。その子は塾もいかずに学校の授業だけで京都大学に現役で入って卒業している。こういうのが本物のギフテットです。

 それからしてみたら、うちの息子はハリボテのようなもので、全く才能を感じない。むしろ遅れているように見える。ようするに息子の知能は、努力を重ねた結果の数値でしかない。逆に言うと知能指数というものは後天的な努力でなんとかなるということになる。ただしハリボテなので、努力をやめた途端に消えてしまう。バブルの泡のようなものなのだと思う。

  実際うちの息子は、近所の子供たちと比較しても、会話能力が非常に劣って見えてるし、1歳年下の子供達と遊んでいても息子の方が弟分になっているくらいに、ぼーっとしている。だから 小学校に入ったら真っ先に「言葉の教室」にはいっていた。会話能力が低くて、幼いというかバカぽく見えていたと思う。

  なので 小学校の3年生ぐらいまでは、知的推理よりも言語理解を中心に勉強させるようにしました。テストの点数などは無視した。授業の点数よりも、その先を目指して、教養番組や、E テレの高校生講座の中で面白そうなやつを選んで見せていた。夏休みの宿題に読書があると知って、1日5冊くらい読ませたし、読み聞かせもした。漫画も読ませました。歴史漫画・科学漫画・伝記漫画なんでも読ませた。

 その結果 10歳の時に行った IQ テストでは、言語理解が140と上がって、大人と変わらないというお墨付きをもらいました。逆に知的推理が120に下がっていた。つまり後天的な努力によって言語理解の IQ が高くなっていたということになる。で、ワーキングメモリをアップさせる作業はやらせてなかったので知的推理が下がっていた。ようするに息子はギフテットではない。ないけれど努力でギフテット並みの知能を獲得できたことが、これで証明されてしまったわけです。そして、努力をやめると、 IQ が低下してしまうことも証明されてしまった。






 と言うわけで、勉強の方は比較的簡単に解決がついたわけですが問題は運動の方です。こればかりは苦戦した。嬬恋村には、子供達が自由に運動ができる体育館というものはなかったし、スポーツ教室も無かった。インターネットで探しても出てこなかった。 仕方がないので軽井沢の風越公園に出かけて、お金を払って 総合体育館を利用し、サッカーや ドッジボールやバスケットボールをしました。短距離走もやった。


 もちろん理論もやった。E テレの「体育ノ介」とか、「すイエんサー」とか、「奇跡のレッスン」なんかを片っ端から見せました。 これらの DVDソフトは、息子の妊娠がわかった時から、 NHK や E テレや 衛星放送されたものを片っ端から録画しておいたので、ネタが切れるということはありませんでした。





  しかしなかなか 成果が出なかった。成果が出ないので小遣いをあげることにした。 縄跳び なら10回飛んだら100円。20回 飛んだら200円という感じです。これがいけなかった。

  息子は 極度の悔しがりなんです。なにかに失敗してしまうと悔しくて泣いてしまう。上毛かるたでも、負けそうになると わんわん泣いてしまう。テストの点が悪くても泣いてしまう。 友達とゲームをやってても負けそうになると泣いてしまう。

 ある時です。風越公園の総合体育館で縄跳びの練習をしていた時、何度も 縄跳びに失敗して、どうしても10回以上とぶことができなかった。 そして わんわん泣きながら縄跳びをしていたら、事情をしらないアメリカ人がやってきて「 児童虐待だ」と言ってきた。そして通報されてしまった。

  通報されると何が起きるかというと、嬬恋村の福祉保健課の人が、学校に子供が通学してるかどうかを確認します。その上で事情収集に来ますが、その時は、村の福祉保健課がある体育館に私は息子と一緒に空手教室に出ていました。 村の福祉保健課のすぐそばで息子の運動をみていた。で事情聴取を受けて誤解が解けるわけですが、その時に、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士のかたに、縄跳びが飛べるように手伝ってもらうことになった。

  で、1年ぐらい保健福祉課に通って、 縄跳びの練習をすることによって、どんどん上達していきました。で、思ったことは、プロの教え方は、さすがプロだなと。私が教えてもなかなか飛べなかった 縄跳びが、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士の人が教えると 劇的に上達していく。1年後には小学校の縄跳び大会で、学年で2番目に長く連続縄跳びができるようになってしまった。劇的変化もいいところです。

 特徴的だったのは、教え方が定型通りでないことです。
 相手に合わせて教え方が少しずつ変化していく。
 最初に教えたことと、上手になってから教えることが全く違っている。
 ある教え方が通用しないとわかると、別の教え方になる。

 例えば、うまく飛べないとわかると縄を持たずにジャンプすることから始めたりする。その後に縄を手でぐるぐる回しながらジャンプ練習をしたりする。多少縄跳びができるようになると別の飛び方を教えたりする。相手をよく観察した上で、色々な手法を息子に提案している。

 昭和時代なら何事も根性で頑張れというところなんだろうけれど、 令和時代のプロは、そういう指導はしない。もっと科学的な手法を取るし、何々をしろという強制がない。強制の代わりに提案をし、場合によっては選択肢を与える。「どっちがやりやすい?」と聞いてくる。人間を一つの型にはめない。正解をつくらない指導をしている。理学療法士・ 作業療法士だから、そのような指導法を行うのか? それとも今のスポーツ教室界隈は、全てこんな感じなのか?

 とにかくプロの教え方というのは、素人の教え方とは全く違っている。なので本格的なスポーツ教室に息子を入れようと決心しました。プロの教え方なら私よりもうまいだろうし、スポーツ教室なら外国人に通報されることもないでしょうから。


つづく

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2025年03月26日

スポーツ教室について語ってみる その3 息子の卒業式

 先日、息子の卒業式がありました。その後に謝恩会があったわけですが、私が子供の頃の謝恩会とだいぶ違っていたので驚いた次第です。どういう点が違ってたかと言うと、私が小学生の頃は、PTAは謝恩会に全く関わってなかった。謝恩会を企画したのは小学校の先生。小学校の先生の指導のもとに謝恩会をやったわけです。

 当然のことながら、卒業式の何日か前に行っています。家庭科の先生に家庭科室に来るように言われて、そこで教わりながらサンドイッチを作って、その後にみんなで会場作りをして、改めて担任の先生を呼んで謝恩会をしたわけです。そして小学校の先生にこう言われました。

「中学校卒業する時は、先生たちは教えてくれないから、君たち自身で謝恩会を企画して自分たちだけで謝恩会をやるんだよ」

と。で、中学校の時に謝恩会をやったかと言うと、やった覚えがない。全くその記憶がない。小学校の時は謝恩会をやった記憶があるから、中学校の謝恩会を忘れているということはありえない。だからやってなかったんだと思う。当時はPTAが謝恩会を企画するということもなかったと思うので、生徒にその意思がなければ謝恩会は開かれなかったんだと思う。

 じゃあ何をやったかというと、卒業式の直前に中学校の先生一人一人に挨拶に行った記憶はある。高等学校の合格が決まった時に、学校の全ての先生に1人ずつ挨拶に行った。「先生のおかげで合格しました。ありがとうございました。3年間お世話になりました」と全ての先生に挨拶に行った。これは覚えています。

 当時の先生にしてみたら、一人一人次から次へとやってくる生徒たちの挨拶が、めんどくさかったと思うんですが、誰もめんどくさがらずに、全ての先生が一人一人に貴重なお言葉をかけてくれたのは覚えています。思えばこういうことをめんどくさがらなかった先生たちだったなあと懐かしく思いました。考えても見てください。百五十人の生徒たちが、いちいち挨拶に来るんですよ。そして一人一人にそれぞれの言葉をかけるわけですから、さぞかし大変だったろうと思います。おまけに先生のうちに遊びに行ったりもした。それを断らなかったわけですから、先生も親切だったと思うし、当時の中学生も、めんどくさい生徒たちだったと思います。

 それを考えると謝恩会というシステムは素晴らしいシステムかもしれませんね。謝恩会の拘束時間が長いとは言っても、生徒たちが一人一人先生のところに挨拶に行かれては、先生たちの時間を超長いこと拘束することに比べたら、比較にならないぐらい合理的なんだと思ってしまいました。そういう意味で謝恩会を企画実行してくれた役員の皆様には非常に感謝しています。

 感謝といえばもう一つ、面白い感謝がありました。
 それは謝恩会で初めて担任の先生の本音が聞けたことです。


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 実は息子のクラスは、かなり問題の多いクラスでした。学級崩壊も起こしたし、壮絶なイジメ問題も起こしている。これは幼稚園の頃からそうで、幼稚園の年老いた担任の先生が、こんなにキレやすい子供たちが集まったクラスは初めてだと言ってたぐらいで、いわゆる暴力教室で、すごく問題が多かった。

 小学校に入学して1年生になった時は、担任のN先生に「大丈夫ですかね」とかなり心配されました。何しろうちの息子は無口で、暴力の被害にあってたりしてて、かばってくれる女の子のところに逃げていたりしたので、ずいぶん心配されました。

 とにかく無口で会話能力に乏しく自己主張ができなかったので、それを見かねた担任のN先生が校長先生に進言してくれて、特別な計らいで入学と同時に言葉の教室に入れてもらい、徐々に会話能力が身についていったことで息子の社会性が鍛えられました。


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 2年生になった時は、新しく担任になったS先生が、よく面倒を見てくれました。私の携帯電話にS先生からよく連絡がはいりました。他の父兄の方々は、ご存知なかったかと思いますが、S先生くらい弱者に寄り添う先生はなかったと思います。だから他の御両親のヒソヒソ話しから漏れ聞こえる
「S先生は怒ると怖い」
は、誤解されてると思ったものです。S先生くらい優しくて弱い者イジメが嫌いな先生はいないし、子供をよく観察している先生はいないと思っていました。問題だらけの子供たちをよくまとめたと思っています。

 この頃の私は、息子の運動能力を高めるために毎日1時間かけて嬬恋村の小学校から軽井沢の風越公園に通ってました。そして、料金を払って総合体育館でバスケットやドッジボール、短距離走の練習をしていました。だから毎日、下校時刻になると学校の校門前で、息子が出てくるのを待っていたわけですが、何かの理由で息子が遅れて出てくると、必ずS先生から私の携帯に電話がかかってきた。S先生くらい頻繁に私の携帯に電話をかけてきた先生はいなかった。息子に対して真剣に関わっていたことは、ひしひしと感じていた。


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 3年生になった時、若いO先生が担任になったわけですが、O先生こそ最大の犠牲者だったかもしれません。この時に学級崩壊と壮絶なイジメ問題がおきたわけですが、要するに先生と児童との相性が悪かった。息子のクラスは、性善説で対処できるようなクラスでは無く、
「S先生は怒ると怖い」
という雰囲気がないと、とても対処できるクラスではないのです。

 昭和教師の雰囲気がないと対処できない。
 本宮ひろしの漫画ぽくないと対処できない。

 そういうクラスが息子のクラスなのですが、O先生は良くも悪くも令和の教師でした。赴任して最初の1週間は、授業をやらずに「自己紹介」をやっていたと息子から聞いた時
「あちゃー」
と頭をかかえて「大丈夫かな」と不安に思いましたが、その悪い予感は後で当たることになります。

 それはともかくとして、O先生の授業は、音読を中心にそえた授業形態で、脳科学的に効果的なことをやっていたので、私としては助かりました。おかげで息子の語学能力が、この先生の時に大きく発達したのです。O先生のやろうとしたことは、非常に革新的というか、令和的というか、脳科学的なのでテストの点はともかくとして、言語の成長と人格形成に非常に効果があることは、すぐに理解できました。

 現にこの1年後に行った知能検査で息子の言語能力は、140を記録し、発達心理学の先生にいわせると「これ以上は測定不能で、大人と同じ言語知能をもっています」と言われてます。五歳の時に受けた検査では、言語知能は120でしたから、あきらかに効果がでてます。O先生の授業の組み立てが、脳科学的に有効であったことが原因でしょう。

 O先生は、音読専用の教科書を自ら作ってきた。それは教科書に準拠して無く、古典にちかい名作の美文を集めてテキストをつくり、それを宿題にした。それらの古典を徹底的に音読させるわけですから、効果が出ないわけが無い。

 少なくともうちの息子は、かなり効果が出ていた。私は、息子に何度も音読させたうえに原典の解説をし、原書の読み聞かせもやったし、Eテレで解説している番組も見せた。そして暗記させるくらいに音読をさせた。もちろん私も一緒に車の中で一緒に復唱した。

 ただし教科書と全く関係ない古典文学の一節を音読するわけですから、それをしたからと言ってテストの点が良くなるわけではありませんし、通知表か良くなるわけでもない。だから意図を理解しなかった子供たちなら誰も見向きもしなかっただろうし、はなから馬鹿にしていたかもしれません。しかし、この意図さえ理解して、学習させれば絶大な効果がでるはずです。もちろんテスト勉強の点数には反映されない。そういう目的の勉強ではないからです。ゴールは、もっと先にある。

 だからO先生の時は、テスト勉強はしなくてもいいから音読だけは徹底的にするようにしました。放課後になると毎日、小学校から軽井沢の風越公園まで1時間かけて移動していたので、音読する時間はたっぷりありました。何度も何度も、先生が作ってきた音読教科書を音読させることによって、息子の会話能力がどんどん発達していたことは確かです。

 ただし、それをすることによってテストの点があがるかというと、そんなことはない。音読の効果が理解できてない子供たちににしてみれば、何やってるんだ?ことになるから、そこから学級崩壊に繋がっても不思議は無い。勉強を短期的な効果としてしか考えてなけれすば、つまんない授業・・・ということになる。つまり、先生と児童の相性が悪かったとしか言いようがない。

 だけど、この先生の意図を理解して、親が積極的に利用してあげれば、子供の人生において、すごく効果のあるものになったかもしれない。テストの点とは関係の無いことをやることになり、通知表の評価が下がったとしても、1年間、音読を続けることによって。言語知能はかなり発達するはずだし、うちの息子らは絶大な効果となってあらわれている。


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 そして4年生。さすがに学校側も、学級崩壊を問題として認識してきたのか、O先生とは真逆の昭和系の厳しい先生が担任となりました。昭和系の先生ですから、とりあえず学級崩壊は防げたようです。O先生とは真逆の授業形式に懐かしさを覚えたものです。

 ここでちょっと困ったことが起きました。息子の学習態度です。私は、今まで好奇心中心の勉強させていたので、昭和スタイルの授業方針とぶつかってしまったのです。私は今まで息子に対してやってきた好奇心中心の勉強スタイルのために、息子には苦労して覚えると言う経験がありません。

 それまでの息子は楽しみながらゲームしてる感覚で勉強していた。具体的に言うとタブレットのアプリでクイズ感覚でゲームをさせてみたり、Eテレの高校生講座の面白そうなところを見せたりしていたわけで、学校から出た宿題に対しては、コツを教えることによって10分ぐらいで全部終わらせてしまい、その後は楽しそうなことばかりやっていた。つまり教科書に沿って勉強するというスタイルを今までやってきてなかったために、大量の宿題を出してくる昭和先生の授業スタイルとぶつかってしまって非常に困ってしまった。

 そこでどうしようかなと考えたのですが、社会に出れば、理不尽なことがいくらでも出てくるだろうし、昭和スタイルの上司だっていっぱいいるだろうから、これに合わせることも非常に大切なのではないかと思い直し、あえて合わせてみることにしました。何かの罰則で、ノート三十ページの書き取りの宿題がでれば、必ずやらせたし、どんなに無駄だと思ってもしっかりやらせました。

 むしろ合わせにいった。冬休みの宿題で最低1日1ページの書き取りを言われれば、逆に1日3ページ書かせました。それが学力につながるとは到底思えなかったのですが、昭和時代の小学生は、みんなそれを乗り越えてやってきたのですから、そういう体験も必要かなと思った次第です。

 ちなみに脳科学の立場から言うと、この方式は現代では否定されています。ではなぜ昭和時代にこの学習スタイルが主流だったかと言うと、昭和36年生まれの私の世代ならその理由を小学校の先生から聞かされています。私が子供の頃に
「先生何でこんなにいっぱい漢字を書かなきゃいけないの?」
と子供たちが質問すると先生はこう答えていました。

「社会に出たら誰もが絶対にやらなければいけないことがあるんだよ。それは文字を書くこと。お願いをしたり、手紙を書いたり、営業の挨拶を書いたり、請求書を書いたり、どんな職業に着いたとしても文字は必ず書かなければならない。その時に綺麗な字を書けてないと相手はどう思うと思う?どんなに文章が素晴らしくても文字が汚かったら読んでさえもれもらえないんだよ。綺麗な文字を書くということはとても大切なことなんだ」

 当時はワープロもなければパソコンもなかった。もちろんプリンターなんかあるわけないしコピー機だってない。お知らせのプリントは、ガリ版という手書きの印刷機で印刷するしかなかった。テストだって、ガリ版で作っていた。だから1回しか使えない。今のようにコピーして何度も使い回すことなんかできなかった。毎回手書きで書くしかなかったのだ。





 当時は、文字といえば手書きしかなかった。
 だから昔は必要以上に文字を書く練習をした。
 インクの滲むガリ版すりでは、文字が美しくないと読めなかったのだ。

 書道も今より重要視されていた。
 廊下や体育館などには毎月のように書道の作品が貼られて金賞 銀賞と言った賞をつけて飾られていたものです。昔は筆を使うことが多かった。年賀状や、お歳暮なんかで筆を使って書くことが多かった。

 今となっては考えられないことですが、昔は文字が綺麗だというだけで就職に有利だった。昔の就職試験には文字の綺麗さも考慮に入っていた。だから私が子供の頃は、あらゆる子供向け雑誌に「日ペンの美子ちゃん」の広告が載っていた。




 まあそんなことはどうでもいいとして、義務教育を終えた後に就職をする人たちが多かった昔は、テストの点で100点を取るのと同じくらいに、綺麗な字をかけるということが重要視されていたということは覚えておいて良いかもしれません。そういう時代には漢字の書き取りというのは非常に重要視されていたのですが、脳科学が発達した現代では、もっと簡単に漢字を覚える方式が広まっています。いわゆる小テストです。それも寝る直前の小テスト。


 それを積極的に行ったのは、5年生6年生の担任となる小野先生の時でした。小野先生は、よく漢字の小テストを行った。「あーこの先生は脳科学を知っている。記憶の法則を使ってるな」と思いました。だから、どんどん利用させてもらった。だから通知表の成績だけはよくなった。毎回百点のテストを持って帰るようになってきた。

 それはともかくとして小野先生も令和の先生でした。だから1歩間違えれば、学級崩壊になってもおかしくなかった。息子のクラスは令和の先生には、荷が重かった。その先生が、謝恩会で最後の演説をしたわけですが、こういっちゃ悪いですけれど、すごく面白かった。

 短い言葉で終わるはずの挨拶が、とても長い演説となって、子供たちとの邂逅を、過去の不思議な体験として話をしていた。

「僕は怒ったことがないんです。自慢じゃないけれど怒ったことがない。酔っ払った友達にゲロを浴びせられても怒ったりしてなかった。そういう人間なんですが、このクラスの担任となってからは、さすがに怒った・・・」

 この言葉を聞いた時に、その風景が目に浮かび笑ってしまった。
 あー、ありそうだなあと。
 何しろ とんでもないクラスですから。
 怒ったことのない人、穏やかな人間を激怒させるのが息子がいたクラスです。
 当然と言えば当然。
 そこまではいい。
 小野先生が不思議に思ったことは、怒られた子供たちが、シュンとすることもなく、ケロリとして
「先生、先生、と馴れ馴れしくしてくる」
ことに驚いたという。

 ただそれだけの内容のないことを、延々と大演説していた。文章にすればたったこれだけのことを、長々と長々と話していた。最後の別れの言葉のはずなのに、本当ならここで何か人生のためになるような話をするところなんだろうけれど、そういう言葉は一つも発せずに、2年間に体験した不思議な出来事を思い返していました。

 この演説が、息子のいたクラスの日常風景を見事に描いて見せている。要するに息子がいたクラスは、無邪気すぎた。幼すぎた。アホっぽいというか、天然すぎるというか、大人の常識が通じなさすぎた。だから歴代の担任の先生たちが苦労した。どの先生たちも1歩間違えれば、学級崩壊しかねなかった。

 それをギリギリ留めたのが、小野先生の趣味が「お笑い」だったことかもしれない。だから子供たちの悪行を「ボケ」と認識して、「ツッコミ」としての激怒した。しかし、天然のボケである子供たちは、シュンとせずに、ボケたおしてくる。それらの日常を、不思議そうに回想していた感じだった。それが、とりとめもなく長い話となっていた。そのとりとめのない演説が、私には非常に面白おかしかった。

 現代的な令和系の小野先生にしてみたら、人生がひっくりかえる思いだったのかもしれない。令和時代は、静かで大人しく真面目に授業をきく子供たちが多いと思う。そういう一般的な小学生と比較してみたら息子たちのクラスは、昭和も昭和。ひょっとしたら原始人に近かったかもしれない。先生にしてみたら、嬬恋村に赴任したら、いきなり暴力的な不思議ちゃんばかりいるクラスの担任にされてしまって、さぞ困惑したことと思います。貧乏くじも、いいところだったでしょう。

 とにかく、いろんな意味で息子のいたクラスは常識を外れたところがありました。例えば学級委員の選出なんかだと、立候補者が続出してみんなで選挙して勝たなければならなかった。そんなこと考えられます? 学級委員に争って大勢が立候補するクラスがあるなんて信じられますか?

 普通なら誰もが嫌がる学級委員にみんななりたがった。だから1学期2学期3学期と学級委員が変化したりもした。何か面白そうだなと思ったら、みんなそれに食いつくし、そうでなければ誰もがそっぽを向く。興味があれば先生にどんどん質問するし、興味がなければ学級崩壊が起こる。静かに授業をしようという選択肢はない。

 よくもまあこんなクラスを、現場の先生方が相手したものだと感心します。

 長くなりすぎたので、今日はここまで。
 
つづく

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2025年03月23日

スポーツ教室について語ってみる その2

スポーツ教室について語ってみる その2

 子供が生まれた時に真っ先に考えたことは、勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を送ってほしい。 だから自由奔放に生きていけるように子育てをしようと考えていました。

  なので晴れてる日は毎日、浅間牧場で愛犬ころと 散歩して遊んでいました。 幼稚園に入る年齢になると、教育委員会から幼稚園に入る手続きはしないのかという電話が来ましたが、「うちは 保育所に入れるので大丈夫です」と断ったくらいです。文部省の管轄でもあり、学校の延長である幼稚園に入れるつもりはありませんでした。仕事が忙しい時だけに限定して、保育所か託児所に入れるつもりだったのです。 そうでない時は親子で1日中 公園で遊ぶつもりでした。 現に息子が3歳になるまで毎日のように 各地の公園に出かけていました。





 ところが私が住んでいる嬬恋村では幼稚園と保育所が合併しており『こども園』 というものになっていました。保育所に預けるつもりで入園手続きをすると、そこは幼稚園だったのです。 保育所の子供も幼稚園でみんなと一緒にお勉強するようになっており、 夏休みや 冬休みで 幼稚園が休みの時だけ、保育所になっているというシステムでした。

  なんだか 詐欺にかかったような気にもなりましたか、まあ 仕方ないかと思い、息子を『こども園』という名の保育所と幼稚園が合体した施設に預けたわけですが、私が危惧した通り『こども園』は、幼稚園そのものでした。 幼稚園を休ませて 親子でハイキングに行くと先生に怒られるのです。

 私は学校という型枠に息子をはめ込みたくなかったので、あえて保育所を選んだつもりだったのですが、無理やり強制的に幼稚園 スタイルの教育施設に入れられてしまった。私の子育ては映画の『サウンドオブ ミュージック』のような自然の中でのびのびと育てることが目標だったから非常にがっかりしました。幼稚園の先生は非常に熱心に 息子のことを面倒を見てくれたと思います。 しかしそれは私の望むところではなかったわけです。

 ところがです。

 息子を幼稚園に通わせると、先生が成長が遅れてると言ってくる。確かに遅れていた。 近所に 息子より1歳年下の男の子がいましたけれど、その子と比べて明らかに劣っていた。会話能力と言うか言語能力が劣って見えた。2歳くらい下の子のレベルにみえた。息子は3月26日生まれですが、 それを考えても圧倒的に遅れてるように見えてしまう。なので幼稚園の先生が、
「発達心理学の先生に見てもらってください」
と言ってくる。要するに『学習障害』を 疑ってる感じなのでしょうが、 専門家でもない人間が『学習障害』の可能性を言ってはいけない 規則になってるので、ひたすら「先生に見てもらってください」 と言ってくる。仕方がないので何度も発達心理学の先生のところに連れて行くわけですが、 私自身が、
「何の心配も無い」
という気分でいるので、発達心理学の先生も、
「じゃあ 大丈夫なんじゃないですか」
という雰囲気になって、世間話をしてそれが盛り上がって終わっていました。
「幼稚園の先生は大げさなんだよ」
くらいに思っていてのんびりどっしり構えていました。


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 しかしそうも言ってられなくなったことが起きたのです。 息子と一緒に風呂に入ると変なところに傷がある。よくよく聞いてみると友達にやられたと言っている。どうやら いじめを受けているようなのだ。幼稚園の先生も「いじめ」という言葉は使わないけれど、明らかに体に傷がついた 状態の場合、個別のトラブルを 報告してきます。おまけに、いじめっ子たちは、4月・5月・6月生まれでした。息子は3月26日生まれで大きなハンデがある上に、成長が遅いと来ている。

 そうなってくると
「何の心配も無い」
と言えなくなってくるのです。

 子供が生まれた時に真っ先に考えた「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を 送ってほしい」という考えは甘かったということになる。年配の幼稚園の先生は、

「嬬恋村では子供の数が少なくてクラス替えがないから、自分で強くなければだめ」

と言ってきたのですが、このアドバイスに納得した私は、息子に空手を習わせることにしました。で、スポーツ教室を探したわけですが、車で40分の距離にある『軽井沢風越公園』に空手のスポーツ教室があることを発見しました。そして『軽井沢風越公園』の主催事業である『空手と礼儀教室』に申し込みました。そして週1回の空手教室に通い出したのです。

「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って欲しい」と考える親御さんは多いと思います。 しかし現実問題として、のびのびと育つためには、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、 みんなからいじめられるから、のびのびと育てるという目標を達成できないのです。 勉強はある程度できないとダメだし、 運動もある程度できないと話にならない。 残酷のようなことだけれど、 それが厳しい現実というものでした。

  息子とその友達と体育館で一緒に遊んだりするんですけれど、 私が「 みんなで かけっこ やろうか」と 子供たちに提案すると、みんな喜んで賛成するのだけれど、うちの息子だけが嫌がって参加しない。 なぜならば 一番足が遅いからです。それがわかってるから息子のやつは絶対に競争に参加しない。ひねくれて、ぼっちになってしまう。そんな状態で「のびのびと育つ」とは到底思えない。 ある程度運動ができて勉強ができないと、「のびのびと育つ」ことは無理なのだ。

 一緒に風呂に入ってると、3歳になったばかりの息子は 涙ながらに「早く走れるようになる薬はないの?」と聞いてくる。幼稚園で肩身の狭い思いをしていることが これだけでよくわかる。私はもう一つ決意しました。 空手が強くなるだけでは問題は解決しない。 運動能力と 学習能力を高めないと 「のびのびと育つ」という目標に達成しないという冷酷な現実があった。



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 さいわい『軽井沢風越公園』には、プール・フットサル場・体育館もありましたから、そこに毎日のように通ってバケット・サッカー・水泳を教えました。毎日。往復2時間をかけて軽井沢に通ったわけです。送迎中 車内では、スポーツに関する映像作品を見せました。昔と違って今は、スポーツを上達するための素晴らしい映像作品がありますので、それをdvdに焼いて見せました。

  うちの息子は、 非常識なくらい好奇心の強い子供だったので、 それらのビデオを熱心に見ていました。例えば E テレに、すイエんサーという科学番組があるのですが、その番組ではどうすればドッジボールで勝つことができるかということを 科学的に実験実証して見せたりします。明らかに運動能力に劣る子供達が、どうやったら 強敵に勝てるようになるかという番組。相手がボールを投げてきた時、 右によけた方が 生存確率が高いか、 左に避けた方が 生存確率が高いか、 そういうことを科学的に検証する番組(すイエんサー)があるわけで、そういう番組を積極的に見せたわけです。

 しかしそこまでしても、運動能力は上達しないものです。 いや 上達はしてたのですが、3月生まれというハンデのために相手に追いつけない。息子をいじってくる人たちは、出席番号の最初の人たち。 つまり 4月生まれとか5月生まれなので、相手は1年近く年上。ちょっとやそっとの運動では追いつけない。特に4歳児は5歳児ぐらいの場合は圧倒的な体力差となっていて壁となっている。その壁がいじってくるわけですから始末に悪い。

 これでよく登校拒否にならなかったものだなあと感心するわけですが、 息子は非常に好奇心が強いために、 幼稚園や小学校を嫌がることはありませんでした。ありがたいことに息子をかばってくれる女の子や、男の子がいたことも確かで、4歳とか5歳であるにも関わらず、ダメなことはダメと悪いことを注意する素晴らしい お子さんもたくさんいたようで、それに救われたということもあります。

 とにかく息子の運動能力が平均値を超えるまで5年ぐらいはかかりました。一部の競技でトップを取るまでは、 それから何年かかかりました。 幼稚園の時は1回も飛べなかった 縄跳びも 小学2年生になる頃は、学年で2番目に長時間 飛べるようになっていましたし、小学3年生の頃にはマラソン大会で2位をとる までになりました。スキーやスケートでもたくさんのメダルを確保しましたし、 スカイランと言う登山マラソンでも毎年上位に入るようになりました。こうなると息子のやつもスポーツが楽しくなるらしく、何かスポーツの大会があると必ず参加したものです。

  ちなみに 息子のやつは、 嬬恋村の空手教室・ キックボクシング教室にも通っています。つまり 2つの空手教室に通っていたわけですが、空手には色々な 流派があって 指導の仕方が全く違うわけです。 軽井沢の空手教室は、空手を教えるというよりも 運動させることがメインでした。 とにかく子供に遊びをさせることによって走り回させるのです。 空手を教えるというよりも遊びながら体を鍛える というスタイルです。だから 空手をやってる時間よりも室内サッカーをやってる時間の方が長かった。

  嬬恋村の空手教室は、それとは全く違っていわゆる武道を教えてました。礼儀作法とか、精神に重点を置いた 教え方で、空手の方も基本をじっくり教える感じです。いわゆる正統派な教え方でした。これは軽井沢の教え方とは全く違っていました。

  不思議なことに、 これはスケートでも同じことが言えて、軽井沢のスケートのスポーツ教室では、 スケートを教えるというよりも 遊びながら 運動させることがメインだったのに対して、 嬬恋村の小学校のスケート部では、スケートを基礎からきっちり 教えるということを実践していました。

  嬬恋村の小学校のスケート部では、5つのクラスに分かれていて、 各自のレベルに合わせて教わる内容が違っていたのに対して、 軽井沢のスポーツ教室の場合は、小学生から中学生まで、ほとんど クラス分けがなくて みんなで一緒に滑ってるという感じです。

  個人的な感想を言うと、軽井沢と嬬恋村ではゴールが違っている気がする。軽井沢のスポーツ教室では遠くを目指してる。スケートとか空手にこだわってない。子供たちの体力とやる気をあげることに 中心を置いている感じがします。それに対して嬬恋村では、 空手の上達・ スケートの上達を目指してる。 どっちがいいとか悪いとかいうことではなくて、ゴールが違ってるんだ と思います。

 話がそれました。
 一旦、話を戻します。

 私が何を言いたかったかというと、子供に
「のびのびと育って欲しい」
と願う場合、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、いじめられる可能性がある。そして、ある程度運動ができるようになる方法があるということであり、あるていど勉強ができる方法もある。決して不可能では無いということです。



つづく

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posted by マネージャー at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月21日

スポーツ教室について語ってみる その1

 今日小学生である 息子の最後の授業が終わりました。あとは 卒業式だけです。というわけで、もう遠慮もいらないと思いますので、なんやかんだで今まで言えなかったことをブログで書くことにします。

  小学生時代を通じて 一度 息子は非常に運が良かったと思います。 まず第一に時代に恵まれたこと。それによって色々な体験ができたことです。 今回はその中の一つであるスポーツ教室について少しばかり話しておこうと思います。

  うちのお客さんは90%以上が 小さなお子さん連れのお父さんお母さんです。私のブログを読まれる方も そういう方々が大半だと思いますので、 子供がスポーツ教室に通う意義というか、 スポーツ教室とは何であったかということを 私なりの視点から 解説してみたいと思います。というのも、近いうちに全国の小中学校から部活動が消えてしまうからです。

 もちろん中学校の全国大会も無くなってしまう。つまり「エースをねらえ」みたいなアニメがもう作られなくなってしまう。「ウォーターボーイ」や「スイングガール」みたいな映画が作られなくなってしまうわけです。全国の小中学校から部活動が消えてしまうわけです。そうなると残るは民間がやってるスポーツクラブしか無い。では、民間のスポーツクラブ・スポーツ教室とは、いったいどういうものだろうか?ということになります。


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  あれは今から25年前の話です。

  25年前に私は北軽井沢で宿屋を始めたわけですが、その時に不思議な現象が起きていました。 夏になると巨大なカメラバッグを持った、 どう見ても プロのカメラマンにしか見えない人たちがうちの宿に泊まりに来るのです。

 最初は風景か何かを撮影しに来たのかな と思ったんですが、 どうもそうではないらしい。私もカメラ関係の仕事をしたことがあるので覚えがあるのですが、風景写真家というのは、ものすごい早朝に出かけたり、 雨が降ると一日中 部屋にじっとしていたりするんですが、彼らは規則正しい時間に出かけて 規則正しい時間に帰ってきた。 雨が降っても 台風になっても出発して、定時に帰ってくる。 何か変だなあと思っていたら、 スポーツ教室の専属カメラマンでした。

 そうなんです。 スポーツ教室には専属カメラマンがいたりする。ここが小中学校の部活動と全く違うところです。 お子さんを幼稚園 または小学校に入学させると、学校側はカメラに関して非常に ナーバスになります。

  うちの息子が幼稚園に入園した時、桜の花があまりにも綺麗だったのでその写真を撮っていたら、園長先生が真っ赤になって走ってきて怒鳴られたことがありました。勝手に子供たちの写真を撮るなというのです。私は桜の花を取っていたと言い返したら謝るどころか「紛らわしいことはするな」と怒鳴られて去って行きました。その時はずいぶん非常識な人たちだなぁと思ったんですが、幼稚園の先生にはそういう人たちが多少なりともいて、とにかく写真に対して神経質だったのです。

  これが小学校になると、そこまで神経質ではありませんが、 やはり 似たようなところはあります。

 例えば 修学旅行ではカメラの持ち込みが禁止されています。学校から供与されるカメラでしか撮影できません。撮影する場合は全員の集合写真しか許されていません。もちろんスマホの持ち込みも禁止されています。要するに 幼稚園も小学校も写真撮影に対して かなり神経質になっているということだけは知っておいて良いかと思います。

 ここまで書くと 私が何を言いたいか分かりますよね。 そうです。子供たちの写真をとても重視しているスポーツ教室のことです。全てのスポーツ教室に専属カメラマンがいるわけではありませんが、 スポーツ教室に入ると子供たちが熱心に スポーツしている姿や、 遊んでいる姿の記録写真が大量に残ります。コーチが息子を撮影してラインで送ってくれたりするのです。

  話は変わりますが、 うちの宿の近所にゴミを捨てに行くと、ゴミ捨て場のそばに大きなキャンプ場がありました。キャンプ場と言っても、テントの設営をする キャンプ場ではなくて、ほぼ豪華別荘に近いロッジが何軒も立ち並んでいる豪華なキャンプ場です。安っぽい キャンプ場ではありません。農園付きの豪華なキャンプ場です。なのに不思議なことに、お客さんが入ってる様子がないのです。 もちろん 夏には子供たちの団体さんがいっぱい入っていますが、 それだけです。 ファミリーも入ってなければ ライダーさんが入ってる様子もない。子供たちの団体さんしか入ってない キャンプ場が、 森の中の一等地にドカンとあるわけです。

「こんなんで儲かってるのかな?」
「どう考えても赤字だよな?」

と常々思っていたのですが、私の勘違いでした。 そのキャンプ場は、某少年スポーツクラブの子供たちの夏期合宿に使われる 施設だったのです。つまり私の宿に泊まってみた カメラマンというのは、このキャンプ場に泊まりに来る スポーツクラブの写真を撮りに来たカメラマンだったわけです。

 最初は、高いお金を払って夏の合宿に専属カメラマンを雇って子供たちの写真をバシバシ取るなんて、一体どんな金持ち対象のスポーツクラブなんだろうと思ったわけですが、そうではなかった。そのスポーツクラブは金持ちの子供が対象ではなかった。

「 一体これはどういうことなんだろう?」

と当時の私は不思議がっていましたが、今なら分かります。 子供達が元気に遊んでる姿や、自然体験をしてる姿や、 飯ごうすいさんをしている姿の写真が大量に手に入るわけですから、親としては スポーツクラブ ほど ありがたいものはありません。 学校に通わせてるだけでは そういった写真は手に入らないのです。 しかも プロのカメラマンの撮る写真ですから、 その映像の素晴らしいこと 素晴らしいこと。

 実はうちの宿に泊る プロのカメラマンさんにこっそり写真を見せてもらったのですが、 やはり プロが取るだけあって素晴らしい写真ばかりでした。 みんな いきいきとしてる。 しかも デジタルデータ なので、何枚でも取れちゃう。 初日に A 君の写真がちょっと足りないなぁと思ったら、2日目に A 君の写真をちょっと多めに撮ったりもできる。 b 君はなかなかな 笑わないなと思ったら B 君の笑顔なんとか見つけ出して写真に撮ったりする。繁盛しているスポーツ教室というのは、プロのカメラマンを雇って、そういうことをするわけです。だからスポーツクラブはFacebook や Instagram に子供たちの画像や動画が じゃんじゃんアップされています。 ここが商売を目的としていない幼稚園や小学校と大きく違うところです。


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  あと スポーツ教室に通う子供たちの 親御さんの多くが サービス業 だったりする。大金持ちの親が子供をスポーツクラブに入れているわけでは無い。むしろ逆で、貧乏ひまなしで子供にかまってやれない親御さんが、子供をスポーツクラブに入れている。

 例えば 宿屋の息子だったり、スーパーやデパートに勤める人の娘だったり、親が床屋さんだったり、 飲食業だったりする。彼らは決して裕福ではないのですが、その裕福でない親御さんたちが子供たちを スポーツ教室に通わせたりする。 どうしてかというと 日曜 祝祭日に仕事を休めない。夏休みに休んで家族旅行に出かけられない人たちだからです。

「 家族でディズニーランドに行ってきた」
とか
「家族で海外旅行に行ってきた」
という体験を子供たちにしてあげられない人たちなんですね。

 そういう親御さんにとっては、林間学校に連れて行ってくれたり夏の合宿に連れて行ってくれるスポーツ教室が、神様みたいに見えます。これって、サービス業をやっている人間にとっては、とてもありがたいものなのです。親の代わりに旅行に連れて行ってくれる。こんなにありがたいことは無い。それに、いくらスポーツ教室の月謝が高いと言っても、家族でディズニーランドに行くより滅茶苦茶安い。子供の成長と健康によいし、新しい友達ができる。世界が広がるのです。

(うちの息子は軽井沢スケートクラブで毎年1週間の夏期合宿をしたり、わざわざ新潟まで出かけて砂浜特訓をしたりしまた。ゴミ拾いや林業体験。長野テレビにでたり、マラソン大会、登山なんかを楽しみました。しかも中学3年生から小学1年生という幅広い子供たちとともにです)



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 もちろん、うちの息子もスポーツ教室に通っていました。 最初は小学校のスケート部に入ってたのですが、 途中からスポーツ教室に変えました。 変えたはいいのですが、 そのスポーツ教室は 隣県にあったので隣県の大会参加基準を満たしてなかったりしていたので、小学校の スケート部を完全にやめることはできませんでした。それについても後で語ってみようと思います。

 ではスポーツ教室というのはどういう存在なのでしょうか?
 うちの息子は、合計5つのスポーツ教室を体験しました。
 それについて述べてみたいと思いますが、文章が長くなったので 続きは明日にします。


つづく

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posted by マネージャー at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする