当然のことながら、卒業式の何日か前に行っています。家庭科の先生に家庭科室に来るように言われて、そこで教わりながらサンドイッチを作って、その後にみんなで会場作りをして、改めて担任の先生を呼んで謝恩会をしたわけです。そして小学校の先生にこう言われました。
「中学校卒業する時は、先生たちは教えてくれないから、君たち自身で謝恩会を企画して自分たちだけで謝恩会をやるんだよ」
と。で、中学校の時に謝恩会をやったかと言うと、やった覚えがない。全くその記憶がない。小学校の時は謝恩会をやった記憶があるから、中学校の謝恩会を忘れているということはありえない。だからやってなかったんだと思う。当時はPTAが謝恩会を企画するということもなかったと思うので、生徒にその意思がなければ謝恩会は開かれなかったんだと思う。
じゃあ何をやったかというと、卒業式の直前に中学校の先生一人一人に挨拶に行った記憶はある。高等学校の合格が決まった時に、学校の全ての先生に1人ずつ挨拶に行った。「先生のおかげで合格しました。ありがとうございました。3年間お世話になりました」と全ての先生に挨拶に行った。これは覚えています。
当時の先生にしてみたら、一人一人次から次へとやってくる生徒たちの挨拶が、めんどくさかったと思うんですが、誰もめんどくさがらずに、全ての先生が一人一人に貴重なお言葉をかけてくれたのは覚えています。思えばこういうことをめんどくさがらなかった先生たちだったなあと懐かしく思いました。考えても見てください。百五十人の生徒たちが、いちいち挨拶に来るんですよ。そして一人一人にそれぞれの言葉をかけるわけですから、さぞかし大変だったろうと思います。おまけに先生のうちに遊びに行ったりもした。それを断らなかったわけですから、先生も親切だったと思うし、当時の中学生も、めんどくさい生徒たちだったと思います。
それを考えると謝恩会というシステムは素晴らしいシステムかもしれませんね。謝恩会の拘束時間が長いとは言っても、生徒たちが一人一人先生のところに挨拶に行かれては、先生たちの時間を超長いこと拘束することに比べたら、比較にならないぐらい合理的なんだと思ってしまいました。そういう意味で謝恩会を企画実行してくれた役員の皆様には非常に感謝しています。
感謝といえばもう一つ、面白い感謝がありました。
それは謝恩会で初めて担任の先生の本音が聞けたことです。
実は息子のクラスは、かなり問題の多いクラスでした。学級崩壊も起こしたし、壮絶なイジメ問題も起こしている。これは幼稚園の頃からそうで、幼稚園の年老いた担任の先生が、こんなにキレやすい子供たちが集まったクラスは初めてだと言ってたぐらいで、いわゆる暴力教室で、すごく問題が多かった。
小学校に入学して1年生になった時は、担任のN先生に「大丈夫ですかね」とかなり心配されました。何しろうちの息子は無口で、暴力の被害にあってたりしてて、かばってくれる女の子のところに逃げていたりしたので、ずいぶん心配されました。
とにかく無口で会話能力に乏しく自己主張ができなかったので、それを見かねた担任のN先生が校長先生に進言してくれて、特別な計らいで入学と同時に言葉の教室に入れてもらい、徐々に会話能力が身についていったことで息子の社会性が鍛えられました。
2年生になった時は、新しく担任になったS先生が、よく面倒を見てくれました。私の携帯電話にS先生からよく連絡がはいりました。他の父兄の方々は、ご存知なかったかと思いますが、S先生くらい弱者に寄り添う先生はなかったと思います。だから他の御両親のヒソヒソ話しから漏れ聞こえる
「S先生は怒ると怖い」
は、誤解されてると思ったものです。S先生くらい優しくて弱い者イジメが嫌いな先生はいないし、子供をよく観察している先生はいないと思っていました。問題だらけの子供たちをよくまとめたと思っています。
この頃の私は、息子の運動能力を高めるために毎日1時間かけて嬬恋村の小学校から軽井沢の風越公園に通ってました。そして、料金を払って総合体育館でバスケットやドッジボール、短距離走の練習をしていました。だから毎日、下校時刻になると学校の校門前で、息子が出てくるのを待っていたわけですが、何かの理由で息子が遅れて出てくると、必ずS先生から私の携帯に電話がかかってきた。S先生くらい頻繁に私の携帯に電話をかけてきた先生はいなかった。息子に対して真剣に関わっていたことは、ひしひしと感じていた。
3年生になった時、若いO先生が担任になったわけですが、O先生こそ最大の犠牲者だったかもしれません。この時に学級崩壊と壮絶なイジメ問題がおきたわけですが、要するに先生と児童との相性が悪かった。息子のクラスは、性善説で対処できるようなクラスでは無く、
「S先生は怒ると怖い」
という雰囲気がないと、とても対処できるクラスではないのです。
昭和教師の雰囲気がないと対処できない。
本宮ひろしの漫画ぽくないと対処できない。
そういうクラスが息子のクラスなのですが、O先生は良くも悪くも令和の教師でした。赴任して最初の1週間は、授業をやらずに「自己紹介」をやっていたと息子から聞いた時
「あちゃー」
と頭をかかえて「大丈夫かな」と不安に思いましたが、その悪い予感は後で当たることになります。
それはともかくとして、O先生の授業は、音読を中心にそえた授業形態で、脳科学的に効果的なことをやっていたので、私としては助かりました。おかげで息子の語学能力が、この先生の時に大きく発達したのです。O先生のやろうとしたことは、非常に革新的というか、令和的というか、脳科学的なのでテストの点はともかくとして、言語の成長と人格形成に非常に効果があることは、すぐに理解できました。
現にこの1年後に行った知能検査で息子の言語能力は、140を記録し、発達心理学の先生にいわせると「これ以上は測定不能で、大人と同じ言語知能をもっています」と言われてます。五歳の時に受けた検査では、言語知能は120でしたから、あきらかに効果がでてます。O先生の授業の組み立てが、脳科学的に有効であったことが原因でしょう。
O先生は、音読専用の教科書を自ら作ってきた。それは教科書に準拠して無く、古典にちかい名作の美文を集めてテキストをつくり、それを宿題にした。それらの古典を徹底的に音読させるわけですから、効果が出ないわけが無い。
少なくともうちの息子は、かなり効果が出ていた。私は、息子に何度も音読させたうえに原典の解説をし、原書の読み聞かせもやったし、Eテレで解説している番組も見せた。そして暗記させるくらいに音読をさせた。もちろん私も一緒に車の中で一緒に復唱した。
ただし教科書と全く関係ない古典文学の一節を音読するわけですから、それをしたからと言ってテストの点が良くなるわけではありませんし、通知表か良くなるわけでもない。だから意図を理解しなかった子供たちなら誰も見向きもしなかっただろうし、はなから馬鹿にしていたかもしれません。しかし、この意図さえ理解して、学習させれば絶大な効果がでるはずです。もちろんテスト勉強の点数には反映されない。そういう目的の勉強ではないからです。ゴールは、もっと先にある。
だからO先生の時は、テスト勉強はしなくてもいいから音読だけは徹底的にするようにしました。放課後になると毎日、小学校から軽井沢の風越公園まで1時間かけて移動していたので、音読する時間はたっぷりありました。何度も何度も、先生が作ってきた音読教科書を音読させることによって、息子の会話能力がどんどん発達していたことは確かです。
ただし、それをすることによってテストの点があがるかというと、そんなことはない。音読の効果が理解できてない子供たちににしてみれば、何やってるんだ?ことになるから、そこから学級崩壊に繋がっても不思議は無い。勉強を短期的な効果としてしか考えてなけれすば、つまんない授業・・・ということになる。つまり、先生と児童の相性が悪かったとしか言いようがない。
だけど、この先生の意図を理解して、親が積極的に利用してあげれば、子供の人生において、すごく効果のあるものになったかもしれない。テストの点とは関係の無いことをやることになり、通知表の評価が下がったとしても、1年間、音読を続けることによって。言語知能はかなり発達するはずだし、うちの息子らは絶大な効果となってあらわれている。
そして4年生。さすがに学校側も、学級崩壊を問題として認識してきたのか、O先生とは真逆の昭和系の厳しい先生が担任となりました。昭和系の先生ですから、とりあえず学級崩壊は防げたようです。O先生とは真逆の授業形式に懐かしさを覚えたものです。
ここでちょっと困ったことが起きました。息子の学習態度です。私は、今まで好奇心中心の勉強させていたので、昭和スタイルの授業方針とぶつかってしまったのです。私は今まで息子に対してやってきた好奇心中心の勉強スタイルのために、息子には苦労して覚えると言う経験がありません。
それまでの息子は楽しみながらゲームしてる感覚で勉強していた。具体的に言うとタブレットのアプリでクイズ感覚でゲームをさせてみたり、Eテレの高校生講座の面白そうなところを見せたりしていたわけで、学校から出た宿題に対しては、コツを教えることによって10分ぐらいで全部終わらせてしまい、その後は楽しそうなことばかりやっていた。つまり教科書に沿って勉強するというスタイルを今までやってきてなかったために、大量の宿題を出してくる昭和先生の授業スタイルとぶつかってしまって非常に困ってしまった。
そこでどうしようかなと考えたのですが、社会に出れば、理不尽なことがいくらでも出てくるだろうし、昭和スタイルの上司だっていっぱいいるだろうから、これに合わせることも非常に大切なのではないかと思い直し、あえて合わせてみることにしました。何かの罰則で、ノート三十ページの書き取りの宿題がでれば、必ずやらせたし、どんなに無駄だと思ってもしっかりやらせました。
むしろ合わせにいった。冬休みの宿題で最低1日1ページの書き取りを言われれば、逆に1日3ページ書かせました。それが学力につながるとは到底思えなかったのですが、昭和時代の小学生は、みんなそれを乗り越えてやってきたのですから、そういう体験も必要かなと思った次第です。
ちなみに脳科学の立場から言うと、この方式は現代では否定されています。ではなぜ昭和時代にこの学習スタイルが主流だったかと言うと、昭和36年生まれの私の世代ならその理由を小学校の先生から聞かされています。私が子供の頃に
「先生何でこんなにいっぱい漢字を書かなきゃいけないの?」
と子供たちが質問すると先生はこう答えていました。
「社会に出たら誰もが絶対にやらなければいけないことがあるんだよ。それは文字を書くこと。お願いをしたり、手紙を書いたり、営業の挨拶を書いたり、請求書を書いたり、どんな職業に着いたとしても文字は必ず書かなければならない。その時に綺麗な字を書けてないと相手はどう思うと思う?どんなに文章が素晴らしくても文字が汚かったら読んでさえもれもらえないんだよ。綺麗な文字を書くということはとても大切なことなんだ」
当時はワープロもなければパソコンもなかった。もちろんプリンターなんかあるわけないしコピー機だってない。お知らせのプリントは、ガリ版という手書きの印刷機で印刷するしかなかった。テストだって、ガリ版で作っていた。だから1回しか使えない。今のようにコピーして何度も使い回すことなんかできなかった。毎回手書きで書くしかなかったのだ。
当時は、文字といえば手書きしかなかった。
だから昔は必要以上に文字を書く練習をした。
インクの滲むガリ版すりでは、文字が美しくないと読めなかったのだ。
書道も今より重要視されていた。
廊下や体育館などには毎月のように書道の作品が貼られて金賞 銀賞と言った賞をつけて飾られていたものです。昔は筆を使うことが多かった。年賀状や、お歳暮なんかで筆を使って書くことが多かった。
今となっては考えられないことですが、昔は文字が綺麗だというだけで就職に有利だった。昔の就職試験には文字の綺麗さも考慮に入っていた。だから私が子供の頃は、あらゆる子供向け雑誌に「日ペンの美子ちゃん」の広告が載っていた。
まあそんなことはどうでもいいとして、義務教育を終えた後に就職をする人たちが多かった昔は、テストの点で100点を取るのと同じくらいに、綺麗な字をかけるということが重要視されていたということは覚えておいて良いかもしれません。そういう時代には漢字の書き取りというのは非常に重要視されていたのですが、脳科学が発達した現代では、もっと簡単に漢字を覚える方式が広まっています。いわゆる小テストです。それも寝る直前の小テスト。
それを積極的に行ったのは、5年生6年生の担任となる小野先生の時でした。小野先生は、よく漢字の小テストを行った。「あーこの先生は脳科学を知っている。記憶の法則を使ってるな」と思いました。だから、どんどん利用させてもらった。だから通知表の成績だけはよくなった。毎回百点のテストを持って帰るようになってきた。
それはともかくとして小野先生も令和の先生でした。だから1歩間違えれば、学級崩壊になってもおかしくなかった。息子のクラスは令和の先生には、荷が重かった。その先生が、謝恩会で最後の演説をしたわけですが、こういっちゃ悪いですけれど、すごく面白かった。
短い言葉で終わるはずの挨拶が、とても長い演説となって、子供たちとの邂逅を、過去の不思議な体験として話をしていた。
「僕は怒ったことがないんです。自慢じゃないけれど怒ったことがない。酔っ払った友達にゲロを浴びせられても怒ったりしてなかった。そういう人間なんですが、このクラスの担任となってからは、さすがに怒った・・・」
この言葉を聞いた時に、その風景が目に浮かび笑ってしまった。
あー、ありそうだなあと。
何しろ とんでもないクラスですから。
怒ったことのない人、穏やかな人間を激怒させるのが息子がいたクラスです。
当然と言えば当然。
そこまではいい。
小野先生が不思議に思ったことは、怒られた子供たちが、シュンとすることもなく、ケロリとして
「先生、先生、と馴れ馴れしくしてくる」
ことに驚いたという。
ただそれだけの内容のないことを、延々と大演説していた。文章にすればたったこれだけのことを、長々と長々と話していた。最後の別れの言葉のはずなのに、本当ならここで何か人生のためになるような話をするところなんだろうけれど、そういう言葉は一つも発せずに、2年間に体験した不思議な出来事を思い返していました。
この演説が、息子のいたクラスの日常風景を見事に描いて見せている。要するに息子がいたクラスは、無邪気すぎた。幼すぎた。アホっぽいというか、天然すぎるというか、大人の常識が通じなさすぎた。だから歴代の担任の先生たちが苦労した。どの先生たちも1歩間違えれば、学級崩壊しかねなかった。
それをギリギリ留めたのが、小野先生の趣味が「お笑い」だったことかもしれない。だから子供たちの悪行を「ボケ」と認識して、「ツッコミ」としての激怒した。しかし、天然のボケである子供たちは、シュンとせずに、ボケたおしてくる。それらの日常を、不思議そうに回想していた感じだった。それが、とりとめもなく長い話となっていた。そのとりとめのない演説が、私には非常に面白おかしかった。
現代的な令和系の小野先生にしてみたら、人生がひっくりかえる思いだったのかもしれない。令和時代は、静かで大人しく真面目に授業をきく子供たちが多いと思う。そういう一般的な小学生と比較してみたら息子たちのクラスは、昭和も昭和。ひょっとしたら原始人に近かったかもしれない。先生にしてみたら、嬬恋村に赴任したら、いきなり暴力的な不思議ちゃんばかりいるクラスの担任にされてしまって、さぞ困惑したことと思います。貧乏くじも、いいところだったでしょう。
とにかく、いろんな意味で息子のいたクラスは常識を外れたところがありました。例えば学級委員の選出なんかだと、立候補者が続出してみんなで選挙して勝たなければならなかった。そんなこと考えられます? 学級委員に争って大勢が立候補するクラスがあるなんて信じられますか?
普通なら誰もが嫌がる学級委員にみんななりたがった。だから1学期2学期3学期と学級委員が変化したりもした。何か面白そうだなと思ったら、みんなそれに食いつくし、そうでなければ誰もがそっぽを向く。興味があれば先生にどんどん質問するし、興味がなければ学級崩壊が起こる。静かに授業をしようという選択肢はない。
よくもまあこんなクラスを、現場の先生方が相手したものだと感心します。
長くなりすぎたので、今日はここまで。
つづく
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