北軽井沢ブルーベリーYGHの御客様をみて
思い出したことがあります。
あるエビソートについてです。
以下は、実話です。
1958年。昭和33年4月。
オーストラリアから二人の青年が日本へやってきました。
東京で最初に訪ねたのは日本ユースホステル協会。
英語の話せる部員が応対して、すぐ日本青年館へ案内。
その夜は日本の会員が付き添って東京見物などをさせたといいます。
日本式生活になじんでいない彼らは食事の時、入浴の時、いろいろな場面で、トンチンカンなことをしました。石鹸をつけたまま入浴しようとしたのをとめられたり、箸が持てないで手づかみで料理を食べようとしたのを教えてやったり、日本のホステラーたちがみんな親切にしてあげたのです。
東京を離れて関西旅行をする時も、心もとないこの旅行者のために道案内役をかってでたホステラーもいました。また支部から支部へ連絡して、それこそホスピタリティー親切にもてなすようにと心を配ったのです。
彼らが二ヵ月の日本旅行で、何を見て、何を感じたか。
神戸の港から帰国する時、日本のホステラーたちに
手を強く振って彼らは約束しました。
「日本という国は、こんな親切な人々の住んでいる国とは思わなかった。毎日毎日の温かいもてなしが私たちの胸にいっぱいたまっている。この日本人の親切心を大きな土産にして故国に帰ります。来年はわが国のメルボルンでオリンピックが開かれる。日本の選手もたくさんこられるでしょう。しかしオーストラリアでは、反日感情が強いので、オーストラリアが、どんな気持ちで日本選手団を迎えるか、あまり期待しないでほしい。ただ、私たち二人だけは必ず日の丸の旗をもって歓迎します」
と、いってオーストラリアへ船で帰りました。
そして翌年。
日本選手団がメルボルンに着いた時、
二本の日の丸だけでなく何千本という日の丸の旗が、
オーストラリア人によって強く振られていました。
それは日本のユースホステルで受けた親切を
青年たちによって語り伝えた反応だったのです。
この話は、年輩ユースホステルマネージャーなら、たいていの人が知っている話です。昔のユースホステルには、こういうエピソードが、たくさんあったのです。はたして、今のユースホステルには、こんな美談が、いくつ残っているのでしょうか? こんな過去は、もはや夢物語なのでしょうか?
つづく
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どうして反日感情が強かったのでしょう。
YHにはそういうおもてなしの人々があふれていたのですね。そのときの、そのかたがたはいったい今、どうしているのでしょうか。
今は、どうなのか、自分は・・・汗
十年前まで敵同士で戦っていたからです。そのうえ当時のオーストラリアは、白豪主義で人種差別も露骨でした。余暇で人間狩りをしていた歴史ももっていました。そのせいか世界で最も反日的であった国であったことは確かでした。