2009年08月03日

トムラウシ山遭難事故と百名山

トムラウシ山遭難事故は、悲しい出来事でしたが、中高年の百名山へのチャレンジと関係あるかもしれませんね。なんといっても、トムラウシ山は、百名山ですから。

で、百名山を完遂した御客様数名に
「どの山が一番きついですか?」
と聞いたことがあるのですが、みんな口を揃えて
「トムラウシ山か利尻山」
と言います。それを聞いた私は

「はて? どうしてだろう?」

と疑問に思い、こう聞き返しました。

剣岳は?
槍ヶ岳は?
穂高岳は?
こっちの方が、きつくないですか?
トムラウシ山なんて楽勝でしょう。
利尻山も、きつくないし。
岩場があるわけでないし。

すると、こんな答えが

「トムラウシ山にも、利尻山にも山小屋がないですから」
「・・・・」

ああ、そうか。そうだったのか。ふだん営業山小屋を利用している人にとっては、トムラウシ山はキツイのか。かつぐ荷物の重さが違うから。しかし、でも深田久弥さんは、テントで百名山を登ったと思うのだけれど。

 それは、ともかくとして、
 日本人は、なぜ百名山をめざすのか?
 これは、大昔からの伝統である巡礼の風習からきているように思います。

 西国三十三カ所巡り、東国三十三カ所巡り、秩父三十四カ所巡り、四国八十八カ所巡りなど、日本人は、巡礼が大好きでしたよね。その文化風習が、遺伝子が、山屋にも継承されたような気がしてなりません。だから百名山がブームになったと。そして、二百名山、三百名山、花の百名山と続いていくのですね。

 日本で、もっとも平和だった時代は、江戸時代です。幕末を除いて内乱ゼロというのは、奇跡をみる思いですね。しかし、この平和な江戸時代にこそ、もっとも旅人が大量発生した時代なんですね。江戸時代の庶民が、日本史上一番旅をしています。ジャンジャン旅をしています。ただし、江戸時代の庶民は、お伊勢参りなど、日ごろ信仰している神社やお寺へしきりと参詣旅行に出かけました。

 そういう時代ですから、紀行文や旅のガイドブックが次々と発行され、それがすべてベストセラーになるという出版文化が花開きました。なかでも有名なのが十返合一九の「東海道中膝栗毛」で、その他に「金比羅参詣」「木曾街道」「善光寺」「中山道道中」「上州草津温泉道中」なんてのもあります。

 また東海道のガイドブック「東海道分間絵図(斐川師宣)」、江戸のガイドブック「江戸名所図会」「東都歳事記」、京都のガイドブック「都名所図会」などが発行されました。さらに広重の「東海道五十三次」なども発行され、庶民にとって旅行は、とても身近なものにています。

 また、菅江真澄・古川古松軒・貝原益軒・大田蜀山人・鈴木牧之などが次々と紀行文を発表し、それが飛ぶように売れました。庶民の旅にたいする関心は、異常なほど強かったようです。こうなると、ひょっとしたら現代より、江戸時代の庶民の方が旅に対する感心が高かったのではないか?と思えてきます。

 では、江戸時代の庶民たちは、どんな旅行を行なっていたか?
 それについて、ちょっと解説してみたいと思います。

 実は、江戸時代の庶民たちは、実に活発にサークル活動をしていました。サークル活動のことを「講」と言います。「講」とは僧や民衆の集会をさす仏教用語でしたが、便利な表現なので、いろんな意味に使われ、サークルや組合の意味と同義語のように使われるようになりました。

 講の中には、氏神講から、積立金融団体の頼母子(たのもし)講や、鍛冶屋組合のふいご講など、たくさんの講が生れて、さまざまなサークル活動が全国で活発になっていたわけです。

 さて旅の話に戻しますが、旅人のサークルも、たくさん誕生し、かなりの数の会員が全国を旅するようになりました。その中でも最も大きかったサークルが、伊勢講です。

 伊勢講のすごいところは、全国の農家に御師(おんし)という、現代で言えば旅行会社の営業社員(布教もした)のような人を派遣し、神符や暦などを配付して、伊勢参詣のための説明会を開きました。また、参詣の際には宿を指定し、伊勢に到着すると自宅に泊めて大神楽を奉納させるなど、いたれりつくせりのパックツアーを行っていました。

 こういうパックツアーは、全国の有名社寺で普通に行なわれており、江戸時代後期には、各種の講が指定していた、指定の宿が乱立していたようです。有名社寺が、このような旅行業務を熱心に行なっていたわけです。

 話がそれますが、指定の宿とは言うものの、統一基準など無く、サービスが悪いボッタクリ宿や暴力団が経営するような宿も多かったようです。

 まるで現代日本の
 山岳業界みたいですね。


 それに目をつけた大坂や江戸の行商人たちは、自らの経験を生かして、全国の優良旅館を選定してネットワークを作り、指定旅館制度を創始して、浪花講という優良旅館組合をつくりました。そして利用者には加盟施設一覧を記したガイドブックや、会員証や、道中案内が渡されました。そして旅館には、目印に浪花講の看板がかかげられました。本当にいたれりつくせりのツーリストシステムです。

 で、現代の日本のお話にもどりますが....?


つづく

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posted by マネージャー at 23:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 登山関係の話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど言われて見れば、巡礼と百名山巡りってほんとそっくりですね。
昔も今も同じことの繰り返しなのですね。
気付きませんでした。すごい着眼点だなぁと感心してしまいました。
僕は熊野古道に関心を寄せる今日この頃です。
Posted by わんたろう at 2009年08月03日 23:50
百名山…日本山岳連盟の元上司のうち1人は「百名山全部登った」と聞いてるのですが
今日(ってかもう昨日か?)もう1人に聞いてみたところ
「百名山はやってない,大雪山には行ったけどトムラウシには行ってない」とのことで
やっぱり「キツかったのは利尻山」だそうです。

あ 十数年かかってやってる「お遍路さんまねごとツアー」
あと 土佐・伊予・讃岐 1カ寺ずつ残ってます。
Posted by bobcat at 2009年08月04日 00:15
管理人さま、

仰るとおり、100観音と100名山は同じ流れですね。熊除けの鈴と錫杖の鈴も同じなのではないかと、いつも思っています。

ところで私はしかし、100名山自体を否定するものではありません。100名山を巡るのは楽しいでしょうし、それなりの達成感があるだろうと思います。深田さんが特に無謀な山域を選んでいるとも思いません。自分もお金と時間があって、他に登る山もなくなってしまえば、ぜひ100名山巡りをやってみたいと思います。

問題は、根本的には「山の常識」が伝承されていないことではないしょうか。あえて言えば、いたずらにエベレストだのサーティーンだのを誇ることに終始し、一般の善良な中高年登山者を見下した山岳会の体制には問題があると思います。

劔で登山経験3年の方が遭難されたようですが、私には考えられません。(関東では) 高尾山を登り、丹沢を登り、八ヶ岳を歩いて、こわごわ白馬岳を登る、という「標準コース」があったと思います。いきなり劔にアタックなんて、あり得ません。亡くなられた方の問題ではなく、3年で劔に登れると思わせる風潮が問題かと思います。

乱筆になりました。とにかく不用意な遭難が多すぎると思います。それは誰か個人の責任ではなく、何かが間違っているのだと思います。

Posted by 代官山のバッカス at 2009年08月04日 00:39
社会人になって山岳ハイキング部に入部しました。班分けをしてリーダー・サブリーダーを決め、山歩きをするうちに知らず知らず山のあれこれを学びました。一般山行と称して、一般の人を交えて尾瀬や白馬にも行きました。嵐の大雪渓をアイゼンをつけて下山したこともありましたが、ちゃんとしたリーダーたちの判断と決断で無事に下山できました。今の安易なツアー山行とは違いました。
団体ツアーで簡単に参加できる山歩きは、基本から考え直すべきですよね。
Posted by e-ba- at 2009年08月04日 12:25
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