支えています。
『嬬恋村誌』によれば、
「建久年間、浅間野に狩りに来た頼朝は、この岩を見て珍しく思い、岩を的にして矢を射させることにした。この話を聞いた力自慢の男が、(中略)持っていた握り飯を、岩を目掛けて投げつけた。岩には大きな窪みができた。その大きさは3尺ばかりだった」
とあります。
その穴で記念写真を撮っているわけですね。
この的岩は、的岩山と吾妻山を結ぶ尾根上、標高1769メートル地点に、北より東約30度の方向を軸として直立します。その長さは、約200メートル、高さは20メートルに達します。厚さは3メートル前後で巨大な屏風を思わせます。
岩質は、含橄攬石複輝石安山岩。地殻の中のマグマが、その上にあった火山砕屑岩層の割れ目に沿って、板状に貫入し凝固したものです。それがその後、侵食によって周囲の脆弱な部分が排除されてできあがりました。いわゆる注伏節理ですね。3メートルの六角柱状の俵を積み重ねたような形をしています。
火山地質学的にも非常に貴重なものとされ、昭和15年には国の天然記念物に指定されています。で、県境にありながら所有者は、真田町外一市一町共有財産組合になっており、その管理は旧真田町(現上田市)とされています。嬬恋村の行政区にありながら嬬恋村の文化財としては、認定されていません。
これは、古くから四阿山信仰の拠点として旧真田町があったからです。嬬恋村では、修験道は、それほど盛んではなく、逆に旧真田町では、盛んに四阿山で修験道の修行を行っていたためです。広大な面積の嬬恋村に寺院は2つしかありません。しかし、旧真田町には、数多くの寺院があり修験道も盛んでした。それで四阿山の的岩を所有するに至るわけです。
四阿山は修験道の霊山でした。この霊山への鳥居峠からの参詣道を、尾根に沿って進み、標高1800メートルあたりのところに「華童子宮跡」があります。この童子とは、如来の王子または1番弟子である菩薩の別名とみられています。また修験道では入峰・出峰の行事を蓮華会と言っています。つまり、「華童子宮」の華は蓮華会の華であり、華童子宮とは、蓮華会のための童子の常駐する場所と考えられます。つまり山頂の奥ノ院と、鳥居峠の中間に位置するため、中宮的性格をもったものとも思われます。
残念ながら、この宮は、廃墟となっていますが、石塁に囲まれた建物跡と灯籠の石柱などが、まだ残っています。また、この宮跡の手前の賽の河原とされる地には、直径数メートルの積み石塚状の構築物が三箇所ほど確認されています。
つづく。
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