小串鉱山のある毛無峠は、このあたりで最も気候が厳しいところです。これは、嬬恋村に住んでないと分かりません。長野県の人には、分かりようがないのです。というのも、嬬恋村に住んでいると、最初に雪で真っ白になるのが、あのあたりなんですよ。
それから毛無峠の横に破風岳という山がありますが、風を破る山という意味ですが、どうして、こんな名前かと言いますと、小串鉱山のある毛無峠は、風の通り道なんです。厳冬期には、普通に風速二十メートルになる。
そんな悪条件下に、
嬬恋村における
最大都市ができあがった。
それが小串鉱山なんですよ。
小串鉱山は、儲かったらしい。
村の男は、みんな出稼ぎに行った。
土地の古老の話では、田畑で稼ぐ十倍の賃金をもらえたらしい。
で、男たちが村に帰ってくると、酒ばっかり飲んで働かなくなった。
このへんからも、かかあ天下の土壌が生まれたとのこと。
この鉱山には、朝鮮からも大量の出稼ぎがあったらしい。
戦争中は人手不足だったから。
ものすごい金になったので、彼らは金が出来ると
北軽井沢あたりまで行って牛を買いに行った。
その牛を生で食べたとのこと。
貧乏な日本人たちは、それを分けてもらったこともあったとか。
そして、その牛の骨が万座川や仁田川の川原に、
戦後間もない頃までに牛たちの白骨が
何十も野ざらしになっていたらしい。
また、ここには悲しい歴史があります。
昭和12年11月11日午後3時半頃、鉱山北側の斜面が、
幅約500メートル、長さ1キロにわたって崩落し
建物35棟が埋没、15棟が焼失したのです。
死者245名。
しかも、女子供が大半でした。
そのためか鉱山は、2年後に復旧。
そして小串鉱山は、人口2100名、従業社員数675名の大鉱山に発展。
人口にものをいわせて嬬恋村に議員を多数おくりこみました。
嬬恋村の前村長も、小串鉱山関係者でした。
さらに公民館・診療所・小中学校・幼稚園が完備。
当時珍しいスーパーマーケットまでありました。
私の知人は、戦時中、小串鉱山に布団を売りに行って大儲けし、
その金で結婚式場をオープンしたといいますから
鉱山町は、かなり景気が良かったらしい。
ところが戦後、昭和46年7月に閉山。
小串鉱山跡地は一面の荒野となっています。
つづく。
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