2009年09月15日

佐久総合病院とは何か?2

佐久総合病院とは何か?2

佐久総合病院とは何か?について、つづきです。

ドクターコトーというテレビドラマがありましたが、
あれは、若き日の若月俊一に似ています。

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 ところが若月俊一は、病人をかたっぱしから手術し、
 一段落ついた後に、病気を探しに行った。
 つまり顧客開拓に出かけたわけです。

 農村の中に積極的に入り込み、無医村への出張診療を行いました。
 また「予防は治療に勝る」と自ら脚本を書いた演劇などを
 セットにした出張診療をおこない衛生活動の啓発に努めました。
 そして農民の生活に密着したフィールドワークや研究をおこない、
 気づかず型、がまん型の潜在疾病の概念を確立しました。

 元マルキストの若月俊一は、理想に燃えて農村医療を追求した。
 彼は、農民の味方だった。
 しかし、そういう医療を行うと、医師たちに負担がかかります。
 病院を去っていく医師たちも多かったが、
 医師組合に「労働強化である」と突き上げもくらった。

 なんのことはない。
 マルキストが、マルキストにケンカを売られたのだ。
 左翼同士が内ゲバを行ったようなものです。

 しかし『阿弥陀堂だより』を書いた南木圭士さんは、
 左翼ではなかったために傍観したらしい。
 嬬恋村の中で最も貧しい家庭に育っていたために、
 左翼の理論闘争が、どこか絵空事のように思えてならなかったらしい。
 根っからの貧乏人にしてみれば、
 金持ち息子の理屈(左翼思想)は、
 どこか地がついてなかったように思ったのでしょうね。

 (このへんは『阿弥陀堂だより』を読むとよくわかります)
 (『阿弥陀堂だより』は原作者の自伝の臭いがプンプンします)

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 かといって、若月俊一をあがめるわけでもなく、
 病院経営者としての若月俊一に対して距離をとっていたようです。
 むしろ不信感さえいだいていたようです。
 (信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 (岩波新書) 参照)

 しかし、その若月俊一観が、180度変わるのは
 南木圭士さんが、東南アジアに医師ボランティアに出かけたときらしい。

 圧倒的な貧しさを見せつけられ、次から次へと、遠方から患者がやってきて、かたっぱしから診察する南木圭士さんは、癌を発見し、「急いで病院に入院しろ」と言っても「金がない」と笑いながら去っていく患者達。癌感謝には、気休めにすぎないアスピリンを3日分、渡すと、笑顔で帰っていく末期患者達。そういう人達が、雲霞のごとく集まってくる。遠くから集まってくる。そこには、貧しかった南木圭士さんの少年時代の光景が、ありました。


「ああ、そういう事だったのか!」

と南木圭士さんが思ったのは、容易に想像できます。
そして、どんなに病気を退治しても、
これじゃ、きりがないと思ったでしょう。

「若月俊一の予報医学しかないな」

この体験が、南木圭士の若月俊一観を180度変えてしまったようです。


つづく。

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posted by マネージャー at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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