佐久総合病院とは何か?について、つづきです。
ドクターコトーというテレビドラマがありましたが、
あれは、若き日の若月俊一に似ています。
ところが若月俊一は、病人をかたっぱしから手術し、
一段落ついた後に、病気を探しに行った。
つまり顧客開拓に出かけたわけです。
農村の中に積極的に入り込み、無医村への出張診療を行いました。
また「予防は治療に勝る」と自ら脚本を書いた演劇などを
セットにした出張診療をおこない衛生活動の啓発に努めました。
そして農民の生活に密着したフィールドワークや研究をおこない、
気づかず型、がまん型の潜在疾病の概念を確立しました。
元マルキストの若月俊一は、理想に燃えて農村医療を追求した。
彼は、農民の味方だった。
しかし、そういう医療を行うと、医師たちに負担がかかります。
病院を去っていく医師たちも多かったが、
医師組合に「労働強化である」と突き上げもくらった。
なんのことはない。
マルキストが、マルキストにケンカを売られたのだ。
左翼同士が内ゲバを行ったようなものです。
しかし『阿弥陀堂だより』を書いた南木圭士さんは、
左翼ではなかったために傍観したらしい。
嬬恋村の中で最も貧しい家庭に育っていたために、
左翼の理論闘争が、どこか絵空事のように思えてならなかったらしい。
根っからの貧乏人にしてみれば、
金持ち息子の理屈(左翼思想)は、
どこか地がついてなかったように思ったのでしょうね。
(このへんは『阿弥陀堂だより』を読むとよくわかります)
(『阿弥陀堂だより』は原作者の自伝の臭いがプンプンします)
かといって、若月俊一をあがめるわけでもなく、
病院経営者としての若月俊一に対して距離をとっていたようです。
むしろ不信感さえいだいていたようです。
(信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 (岩波新書) 参照)
しかし、その若月俊一観が、180度変わるのは
南木圭士さんが、東南アジアに医師ボランティアに出かけたときらしい。
圧倒的な貧しさを見せつけられ、次から次へと、遠方から患者がやってきて、かたっぱしから診察する南木圭士さんは、癌を発見し、「急いで病院に入院しろ」と言っても「金がない」と笑いながら去っていく患者達。癌感謝には、気休めにすぎないアスピリンを3日分、渡すと、笑顔で帰っていく末期患者達。そういう人達が、雲霞のごとく集まってくる。遠くから集まってくる。そこには、貧しかった南木圭士さんの少年時代の光景が、ありました。
「ああ、そういう事だったのか!」
と南木圭士さんが思ったのは、容易に想像できます。
そして、どんなに病気を退治しても、
これじゃ、きりがないと思ったでしょう。
「若月俊一の予報医学しかないな」
この体験が、南木圭士の若月俊一観を180度変えてしまったようです。
つづく。
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