雷電爲右エ門とは、史上最強の相撲とりで、これに勝った力士は、新人時代から通算しても、たったの10人です。優勝記録も7年間連続という恐ろしいものです。また、一場所で2敗することはついになく、同じ相手に2度負けることも一人を除いてなかった。さらに、雷電ルールが適用され、突っ張り、張り手、閂(かんぬき)、鯖折りを禁じ手とされていました。
これが生家。
自由に入れます。
これは碑文。佐久間象山の揮毫により文久元年(1861年)建立されています。突っ張り、張り手、閂を禁じ手とされた逸話も述べられています。 その石片は勝負事に利益があるとしてたびたび削り取られ、明治期には碑文はもう読めないほどになっていたため、勝海舟、山岡鉄舟らの発起で新碑が建立されました。現在新旧の両碑がT字型に並び立っています。
場所は、東部湯の丸インターから、湯の丸山に向かう途中にあります。
つづく。
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結構、裕福な家庭(豪農)の出身だったのでしょうか?
時代と場所は、ちょっと異なるけれど、多摩の豪農出身の近藤勇の実家も武芸を好んでいたように、雷電の実家は相撲を好んで、土俵を作ってたのかな?と写真から想像してみたり…。
ダンナはん、意外と相撲好きらしいので、次回のブルーベリー行きに生家行きを提案してみようかな…?
するどいですね、親父さんは、大の角力好きで、体は小さかったですが、かなり強かったようです。小さい頃の雷電は、父親が師匠だったはず。
ちなみに江戸時代の農家の大半は、裕福でした。そして自作農が90パーセントでした。これが明治に入って、大半が小作農に没落します。理由は、いろいろありますが、その一つに宗教的なモラルを失ったことにあるという説があります。
日本の勤勉は、宗教的モラル(特に曹洞宗/そして、嬬恋村を含めて、このあたりには曹洞宗しかない)に支えられていたのですが、それが文明開化とともに崩壊してしまい、資本主義に押しつぶされてしまったと言われています。
農民にとっては、勤勉は、宗教と直結していましたし、それが民話(いわゆる正直じいさんの話)として残っています。そして、角力も宗教と直結していました。いわゆる神事ですね。たくさん米をつくり、たくさん食べて角力をとるのが、この時代のモラルでしたね。