2009年10月22日

信濃国分寺跡地

信濃国分寺跡地

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 国分寺、国分尼寺とは、741年(天平13年)、聖武天皇が国情不安を鎮撫するため、各国に建立を命じた寺のことです。その国分寺、国分尼寺の総本山が、奈良の東大寺です。今で言う福祉施設ですね。

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 というのも、当時、天然痘などの流行や飢饉などの災害が多かったので、それをはらうのが目的で全国各地に、国立寺院を建てたわけです。国立ですから税金を使って建設させています。寺は、国の大きさなどによりさまざまで、最大が武蔵の約360m平方。最小は甲斐の東西53間 × 南北1町11間だといいます。

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 これらは、諸国の経済状態・文化程度の差や地勢などの条件の違いで、伽藍配置も建物の規模も千差万別でした。瓦などの優劣も大きかったです。そのために同じ規格のものはみられません。面白いのは、武蔵(東京)の国分寺が最大であったと言うことですね。そして、国分寺は、役所のそばに立てられたと言うこと。つまり、奈良時代の東京の中心地は、国分寺市あたりであったということです。

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 では、長野県の中心地は?
 なんと上田市でした。
 奈良時代には、上田市が長野の中心地だったのですね。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:17| Comment(4) | 上田市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
時代が変わると中心地も変わるってなんだか面白いですね。
そこでは何が動いてそうなっちゃうのかなぁって。


奈良時代の長野って、考えもしませんでした。
奈良時代はひたすら、奈良のことしか注目しませんから。
視野が広がります。
Posted by ささらー at 2009年10月23日 14:33
奈良時代は、長野・群馬・九州が面白いですよ。このあたりには、皇室より古い家系がゴロゴロしていますから。
Posted by マネージャー at 2009年10月23日 15:55
皇室より古い家系って、縄文とかですか?
もっと前とか。
長野・群馬、とんで九州って。。。???
その間ももちろんあるんですよね。
Posted by ささらー at 2009年10月24日 10:21
神話時代です。『日本書紀』本文によると、大国主は、スサノオの息子です。その息子が諏訪氏の開祖ですから、神武天皇より確実に古い血筋です。しかし、それを武田信玄は滅ぼしてしまった。日本史的に言うと、武田信玄は逆賊ですね。

Posted by マネージャー at 2009年10月24日 23:10
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