信濃国分寺は、上田市にありました。
奈良時代の上田市は、信濃の国の中心地でした。
なぜでしょう?
理由の1
この付近に官立牧場が多かった。実は、もともと日本には馬が存在してません。古事記・日本書紀にも、(死骸をのぞいて)馬は出てきません。これが出てくるようになるのが、白村江の戦いで唐との緊張関係が発生してからです。で、当時の国防省(兵部省)は、官営牧場を造って馬を増産しました。そして、その牧の多くが、上田市の周辺にありました。
理由の2
長野県は、諏訪氏の支配するところでした。諏訪氏は、建御名方神つまり大国主の子供が先祖ですから、皇室より古い家系です。その諏訪氏の地に行政の中心を置くのに遠慮があったと思われます。そこで上田市に国分寺を造ったのですね。
さて、今日は、国分寺跡地ではなく、
現代の国分寺を紹介。
国分寺の大半は、律令制崩壊とともに滅びますが、
信濃国分寺は、再興されています。
創建時の国分寺は、939年の平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したと伝えられています。また、律令制度の崩壊にともない国家の保護が失われた国分寺は、漸次衰退に向かったようです。現境内地には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が存在し、また源頼朝が堂塔の再建を誓願したとの寺伝がありますので、鎌倉期以降に現地での復興が始まったようです。
室町時代には現存最古の建物である三重塔が建立され、地域民衆の信仰の中心となり、八日堂、縁日の市は当地方の交易の場ともなりました。八日堂の名は今も信濃国分寺の俗称として親しまれています。
戦国時代には、三重塔を除く全てが焼失したと伝えられています。現在の建物は、江戸時代の再建で、本堂は文政十二年(1828)の発願より万延元(1860)の竣工まで近郷一帯から広く浄財を募り33年の歳月をかけて完成したものです。
つづく。
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