つづきです。
日本ユースホステル協会の源流。
それは、第13代鹿島藩藩主、鍋島直彬にはじまります。
そして、この鍋島直彬こそが、
薩長土肥の連合軍を造った幕末の英雄でした。
しかし、これが歴史に出てこないのです。
薩長土肥の中の一つ。肥前鍋島藩の鍋島藩主・鍋島閑叟は、討幕派ではなかった。幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも距離を置いていました。むしろ幕府に近かったきらいがありました。それを勤王倒幕に動かしたのが、支藩である鹿島藩藩主である、鍋島直彬でした。
鹿島藩とは、肥前鍋島藩、つまり佐賀藩の支藩です。
佐賀藩には、蓮池藩・小城藩・鹿島藩の三つの支藩がありました。
蓮池藩は、5万2000石。
小城藩は、7万3000石。
鹿島藩は、2万石。
一番小さい支藩が、鹿島藩です。しかし、この2万石は嘘で、本当は八千石。表高を水増しして2万石にして、やっと大名にしてもらったような藩でした。
表高を水増ししたらどうなるか?
赤字になります。
八千石の予算に、2万石の経費を使えば赤字になります。
財政は逼迫し、参勤交代の予算もない。佐賀本藩からの援助でやっと参勤交代をする。佐賀本藩に援助を断られると、幕府に藩主病気を理由に参勤交代を五年間猶予願いを出して許してもらうことが何度もあった。そのくらい情けない状態でした。
その結果、佐賀本藩から、鹿島藩取り潰しの案が何回も出されました。そして幕府に廃藩の願いが提出されていました。それを受けて老中牧野備前の守は、密かに内情を探らせました。そして出た結論は、十代鹿島藩主・直永の子、直彬(六歳)を十三代鹿島藩主にして、藩主が大人になるまでの間に、鹿島藩の行政改革をするよう、佐賀本藩が助けるようにということでした。
佐賀本藩は、直彬(六歳)を十三代鹿島藩主にして、役人を派遣して壮絶な倹約を命令しました。進駐軍みたいなものです。しかし、倹約だけでは、どうしようもない状態に鹿島藩は追い込まれていました。まさに今の日本国政府みたいです。鹿島藩は青息吐息。
そして、十三代鹿島藩主・直彬(六歳)に対しては、
将来の名君になるべく文武両道のスパルタ教育をはじめました。
これが良かった。
すごい人間ができあがった。
直彬への教育は、質実剛健そのものでした。
しかも文武両道。両方を学んだ。
徳のかたまりのような青年をつくりあげ、
そして行動のすばやい人格を形成してしまった。
十二歳の時におきた安政の大地震の時は、自ら飯を炊き救援活動を行いまとた。十四歳になった時は、初穂米を売却した資金百三十九両を低利で貧民に貸し与え、その利息で図書館の蔵書費としました。
そして、十七歳になるまでの間に、中村敬宇や安積艮斎をはじめとする多くの名儒から教えを受けました。そして、長州藩邸に出入りし、小倉健作や高杉晋作とも交遊し、昌平坂学問所では、勤王として名高い松本奎堂・松林飯山・水本樹堂らとも一緒に学びました。
そして直彬が十七歳となった時、佐賀本藩は、鹿島藩への役人の派遣をやめました。進駐軍を引き上げさせたのです。英邁な直彬ならば、鹿島藩の窮状をうまく処理するであろうという判断が働いたからだと思われます。それほど直彬は素晴らしい青年に育っていました。そして十七歳にして、初めて直彬は、江戸から鹿島藩に入国するのです。
(江戸時代、大名の子供は江戸で育てられ成人するまで故国に帰れませんでした)
十七歳にして佐賀の鹿島城に入った直彬は、驚天動地の活動を行います。干潟のガタリンピックで有名な鹿島は、洪水の本家みたいなところですが、洪水が起きると藩主みずから舟を出して糧食を配給しました。
災害地には、かならず自ら馬を飛ばして巡視し、
仮設住宅を造って罹災者を収容し、
城内の米を出して焚きだしをしました。
火災にも藩主が先頭になって真っ先に火事装束で飛び出しました。
藩主が飛び出したのに家臣が寝ていることはできませんから、
城から一斉に家臣たちが火災現場に向かうことになり、
火災はアッという間に消し止められることになります。
そのうえ、さらに病気が流行したときは、
薬の配給までやってのけたから驚きます。
こういう藩主がでてくると、部下にも凄いのがでてきます。
松尾弥四郎です。
(しかし、この人も、インターネットで検索しても出てきません。つい最近まで歴史から抹殺されていたからです)
この松尾弥四郎と直彬が、
世界史を変えるほどのことをやってのけた。
つづく。
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