2009年12月18日

日本ユースホステル史の源流5

日本ユースホステル史の源流5

つづきです。

 こういう藩主がでてくると、凄い支援者がでてきます。
 能古見の元源昌寺の住職僧祥誉(しょうよ)師です。

 この僧侶は、悟りを開き、心を見通してしまう超能力を体得。米の相場、花札、博打を打ったらほとんど百発百中で勝ち、座の金を全部持って帰る事もありました。もちろん寺の金には一切手をつけず、住職個人の金だけで大儲け。この人が、新藩主直彬の徳に感心し、鹿島藩に大金を貸し与え、さらに自分の姉の孫である松尾弥四郎を直彬公の財政係に推薦しました。

 この松尾弥四郎は、直彬公の信頼を受け、極秘に船を購入し、『豊国丸』と名付け伊万里港を拠点として、伊万里焼や肥前刀などの密輸活動を開始しました。その活動範囲は、全国各地から遠くはインドネシアまで広げたといいます。そして儲けた資金で借金を次々と返済してゆき、新型の銃砲の購入し、莫大な食料と生活雑貨を鹿島藩に多くをもたらしました。まさに奇跡。倒産寸前の藩が、たった十年で日本一裕福な藩に変化し、その資金をもって新兵器を購入し、最強の軍隊を設置。さらに明治政府に鹿島藩の財産を現金八万両をも引き渡しています。

 廃藩置県後は、直彬は松尾弥四郎に密貿易の功労船『豊国丸』を格安で払い下げ、その『豊国丸』をもって松尾弥四郎は、わずか八年間で巨万の富を築き大富豪となります。このまま行けば、三井三菱を凌ぐ巨大財閥になろうというところまで行きますが、明治十二年に直彬が沖縄県知事に就任するとともに、直彬を慕って臣下にもどって同行し、沖縄統治のために私財を投じるわけですが、それは後の話になります。

 とにかく、直彬の周りには、僧祥誉や松尾弥四郎のような人材が続々と集まり、鹿島藩の財政難をアッという間に解決してしまい、国を豊かにし、学問をおこし、軍備を増強し、いつの間にか佐賀本藩をもしのぐ国力をつけていきました。そして直彬は、密かに佐賀本藩の勤王志士たちを応援するまでになりました。佐賀藩の志士たちの多くは、陰で鹿島藩直彬のバックアップを受けていたのです。しかも隠密に。

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 しかし、佐賀本藩の鍋島閑叟は、勤王から距離をとっており、脱藩志士たちに斬首を命じていました。それらを庇護しかくまい、資金まで与えたのが鹿島藩の直彬でした。もちろん資金源は松尾弥四郎による密貿易によるものです。そして、志士たちが鍋島閑叟に殺されかかるたびに、佐賀城まで走り、鍋島閑叟に天下の形勢を進言し、佐幕に傾きかけようとする藩論を勤王に戻したのです。

 そしてもし、直彬がいなければ、佐賀藩は佐幕であった可能性があり、佐賀藩の強力な軍事力は、薩長に向けられた可能性があります。もしそうなったら薩長に勝ち目はなかったでしょう。

なにしろ佐賀藩の兵器は、
世界最先端のアームストロング砲
まで備えていたのですから。


 アームストロング砲。

 これは当時の最強砲で、開発国のイギリスでさえ正式装備してなかった砲です。正式装備をしなかった理由は、戦闘中に尾栓が吹き飛んで砲員のすべてが死傷するという事故が度々発生したからです。そのためにイギリス本国で廃棄されることになってしまう呪われた砲です。しかし、威力は絶大で幕末の戊辰戦争で大活躍しました。

 このアームストロング砲を製造可能だった佐賀藩の工業力は恐ろしいものがありますが、ドイツ・フランス・アメリカでも不可能だったアームストロング砲を製造できた理由に、佐野常民の活躍があります。

Tsunetami_Sano.jpg

 彼は、京都で活躍していた、からくり儀衛門をスカウトします。
 この、からくり儀衛門こと田中久重(後の東芝の創始者)は、
 伊万里焼の技術をもって完璧な反射炉を造りました。

 これによって耐火煉瓦の反射によって製鉄することによって不純物をのぞいた純度の高い鉄ができあがります。もう鉄をカンカン叩いて炭素を逃がさなくてもよくなります。

TanakaHisashige.jpg


 この田中久重(からくり儀衛門)は、天才でした。
 エジソンを上回る最強の天才でした。

 というのも、彼の造った工作機械は、
 ヨーロッパから文献で導入したものでなかったからです。
 彼のオリジナルであり、
 日本の技術(からくり)によって造られていたからです。






 彼の造った工作機械の動力は水力です。

 いくつもの水車を使って、
 歯車を組み合わせ、
 精密な工作機械をつくりあげました。
 そして、蒸気船や蒸気機関車を製造し、造船までやってのけます。

 どうりで日本だけが明治維新に成功できたはすです。

 日本には、すでにヨーロッパを上回る基礎技術が、
 民間に存在していたからです。
 それを佐野常民がスカウトしてきた。

 そしてアームストロング砲を製造する工作機械を造らせたのです。
 しかも戦闘中に尾栓が吹き飛ぶ欠陥を改良させていました。
 砲身を長めに造り、
 鉄の純度の低い前後を長めに切断し
 純度の高い鉄の丸太を造る。
 そして水車を使って二十四時間砲内をくりぬく作業をさせたのです。


それも無人の機械(からくり)、
つまり今で言うロボットを使って
アームストロング砲を大量生産させていました。
しかも水車が動力なので、
二酸化炭素は出していません。



 田中久重(からくり儀衛門)が、どれほど凄い人なのかは、次の動画をみればわかります。








 この田中久重(からくり儀衛門)によって造られた世界最強の砲であるアームストロング砲が、もう少しで佐幕側に使われることろでしたが、それをストップさせたのが直彬の活動でした。そして、鳥羽伏見の戦いの後でも、まだ徳川幕府に義理立てしている佐賀本藩に対して、直彬は激昂し、

「鹿島藩のみで薩長に加わる。失敗したら、あれは鹿島藩の独断だと切れ捨てよ、もし倒幕に成功したら、全て本藩の手柄とせよ。全ての罪は、直彬個人が背負う!」

と叫び、これに鍋島閑叟は動かされたのです。こうして薩長土肥の連合軍が成立し、ぎりぎりのところでアームストロング砲は、明治維新のために使われることになりました。そして、アームストロング砲の活躍がなければ、戊辰戦争であれだけの勝利をおさめることは不可能だったのです。

つづく。

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posted by マネージャー at 12:53| Comment(2) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど!
肥前藩の土壇場の官軍参加の裏側には、そういう動きがあったんですか〜!

成功したから本藩の手柄になってしまい、鹿島藩の活躍が陰に隠れてしまったのですね…。

どうも幕末史上の肥前の登場部分は曖昧な感じがしていたけど、そういう裏側があったんですね。

続き、とても楽しみです!
Posted by みわぼー at 2009年12月19日 06:23
大隈重信や江藤新平などは、むしろ佐賀本藩に恨みをいだいていますが、これは無理もないのです。本来佐賀本藩は、佐幕に親近感をもっていましたから。それを逆転したのが鹿島藩の直彬だったわけです。
Posted by マネージャー at 2009年12月19日 15:08
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