日がたちましたが、つづきです。
倒産寸前の鹿島藩を救ったのは、確かに鍋島直彬でしたが、直彬が藩主になったのは、わずか六歳。六歳の少年には藩は救えません。藩を救ったのは、六歳の少年に与えた教育です。少年藩主に対する教育が藩の運命を変えたとも言えます。これは、直彬自身が一番よく知っていたし、鹿島藩の藩士たちにも痛いほどわかりました。六歳の少年に与えた教育がなければ、藩が潰れていた恐れがあったのですから。
そのせいか鹿島藩の藩士たちは、みな少年たちへの教育を重視しました。そして、それが伝統となりました。そして明治十八年七月二十日、田澤義鋪が生まれます。鹿島藩鹿島城の隣にある武家屋敷に住む田澤義陳、母みすの長男として。
田澤義陳は、今で言う教育パパでしたが、知育・体育・徳育のうち、体育を重視しました。まず、朝起きて井戸水を汲み、十三杯の冷水を全身にに浴びました。それが終わらないと飯を食べさせてもらえないのです。庭に大きな池も造りました。夏は、そこで朝から息子を泳がせました。一泳ぎおわるまで朝食をだしませんでした。
食事が終わると朝よみです。
論語などを小一時間ほど声を出して読みます。
幼い田澤義鋪は、まだ四歳だというのに、
難しい漢文を次々と読みこなしました。
詳しく意味が分かっていたかどうかは疑問ではありますが、声を出して読む漢文は、今も昔も、とてもかっこいいものです。こういう風景は、明治大正の頃にはよく見られた光景ですが、これなどは知育ではなく、徳育の部類です。体育をして体を鍛え、朝の徳育。田澤義鋪の幼児期は、こういう風景の中にいました。
田澤義鋪。
実は、彼こそが日本最初の青少年宿泊施設を造った男です。世界最初のユースホステルは、リヒャルト・シルマンが1912年アルテナ城を改築して造られたものです。しかし、その13年後に日本にも青少年宿泊施設ができていたのです。それを作った男が田澤義鋪であったのです。
しかし、日本青年館とユースホステルの間には、
何一つ関連性はありませんでした。
日本青年館は、主に青年の施設であったし、
ユースホステルは、主に小学生の施設であったからです。
ところが、この2つが合体する事件がおきるのですが、その合体の立役者が日本のリヒャルト・シルマンこと横山祐吉氏でありました。そして、この横山祐吉氏が、全く持って謎の男であったわけですが、その謎は、田澤義鋪というキーワードを説くことによって解明できるものだったのです。
では、田澤義鋪とは、どんな男か?
少し探ってみましょう。
つづく。
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昔は、漢文の素養というのが、学問を志す者には、当たり前だったのですね…。
学生時代、本当に漢文が苦手で苦手で…という私からすると、恥ずかしい限りです。
徳目教育は、私たちの世代は、道徳の授業くらいで、結構軽視されていましたが、その弊害が、親となった私たち世代や、その子らに影響されているんだろうなぁ…と、田澤義鋪さんの幼少時代からの教育のスパルタぶりを見ると、考えさせられます…。
これからの、展開、ますます楽しみです!
感想もままならない感じですけど、全部読むのがもったいないくらい面白いです。
ささらーさん
漢文の素養というものは、百人一首のようなもので、声を出して唱えるマントラ(お経)のようなものです。意味は分からなくて良いのです。今で言う流行歌みたいなもので、フィーリングで身につければよい。でも、これを何百回か繰り返しているうちに、人格が変化していく。そして意味も分かってくる。ここが大切なんですね。