つづきです。
佐賀藩は、抹殺された藩です。明治7年におきた佐賀の乱で見事に抹殺されてしまった。しかし、その前までは、薩長土肥の中で、最強の藩であったし、明治政府の中心的存在でした。
明治政府がスタートしたときに太政官が復活するわけですが、一番上位が左大臣と右大臣。左が上ですが、左大臣は適当な人物が見当たらないということで欠員。そして右大臣が三条実美。天皇の権威によって国家を作るわけですから、身分が高い公家をトップに置くのは当然です。ただし、これはお飾り。ですから問題はその次位の大納言ですね。
大納言に岩倉具視と鍋島閑叟が就任している。
つまり、この二人が事実上のトップなのです。
つまり明治新政府は岩倉・鍋島連立政権だったわけです。
薩長土は、その下なのです。
おまけに岩倉と鍋島は大変親しかった。実は明治元年、戊辰戦争中に岩倉具視が長男具定と次男具経を、佐賀藩に留学させている。いかに岩倉が鍋島を信頼し、佐賀藩の学問を高く評価していたかが分かります。それ程までに岩倉と閑叟は親密な仲で、その二人が大納言になって、手を携えて発足早々の明治新政府を切り回していたわけです。ところが、閑叟は病気に倒れ、明治四年正月に五十八歳で亡くなりました。岩倉は、何度も病床の閑叟を見舞いましたが、死の床にあった閑叟が岩倉に、「どうか明治天皇に種痘をしてさしあげるように」と遺言したのは有名な逸話です。
どうして、ここまで佐賀藩が皇室から信頼されたかと言いますと、
2つの原因がある。
1つは、佐賀藩は、長崎から外国勢力を追っ払った過去があった。
幕府は、ペリーの来航に降伏にもひとしい屈辱をうけたのですが、
ちょうど同じ頃、佐賀藩は、長崎から露西亜のプチャーチンを追っ払った。
露西亜のプチャーチンと直接交渉したのは、川路聖謨でしたが、佐賀藩が鉄製の大砲を長崎港にズラリと並べて、露西亜を威嚇した。そのために有利に交渉が進められたのです。
それを川路聖謨は幕府に報告し、幕府は、佐賀藩に鉄製の大砲を200門注文し、お台場を造って再びペリーの来航を待ち構えるわけです。幕府は、残念ながら鉄製の大砲を造る能力が無かったんですね。つまり、幕府より佐賀藩のほうが強国であったことは、幕府の方が認めている。このへんは、薩摩も長州も良く知っていて、佐賀藩を敵に回したら絶対に勝てないと思っていました。
もう一つは、佐賀藩の民度が異常に高かったことがあります。
佐賀藩は、単に近代文明に優れていただけでなかった。
武士・藩主・町民までもが優れていた。
日本で初めての義務教育を開始したのが佐賀藩であったし、
自治会議や庄屋公選、
殖産興業、
社会福祉まで、
明治政府が始める前にやっていました。
明治政府は、これらを外国から学んだのではなく、まず佐賀藩から学んだのです。この歴史が、抹殺されている。ここが分からないと、日本ユースホステルの源流が、どうしても見えてこないのです。
つづく。
↓ブログ更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング
ラベル:日本ユースホステル史の源流7
【関連する記事】
応援ポチポチ!