つづきです。
明治十八年七月二十日。
鹿島城の隣の武家屋敷に男の子が生まれました。
田澤義鋪(たざわよしはる)と名付けられました。
田澤義鋪の父、義陳(よしのぶ)は、藩主鍋島直彬に仕えて、明治維新を体験した人でした。鹿島藩の禄高はサバをよんで二万石。実質八千石の小藩であり何度も取りつぶされそうになった藩でしたが、藩政改革により逆転ホームラン。つまり、九州一の富裕藩に変貌し、軍事力をたかめて、庶民を豊かにし、その余勢をかって、佐幕気味だった佐賀本藩の藩論を勤王倒幕に誘導し、薩長土肥連合軍をつくりあげ、一挙に倒幕をはたしました。
しかし、この逆転ホームランは、六歳の藩主・鍋島直彬を英才教育し、その人徳をもって藩のパワーを巨大化させるという信じがたいホームランでした。明治政府は、天皇の側近に奉仕して常時補佐する、侍補という官をつくり、人格識見ともにすぐれた人物八人を任命しましたが、真っ先に鍋島直彬を任命しました。鍋島直彬の人徳が、いかに優れていたかが分かるというものです。
鹿島藩の維新での功績は、佐賀本藩の藩論を勤王にひっくりかえしたことであるし、戊辰戦争での活躍もめざましいものがありましたが、明治政府は、鍋島直彬に、その人徳見識をたよりにしたという点がユニークなところです。そして明治二十年ころ、アメリカ人が、福沢諭吉に、日本の代表的紳士三人の選定をたのんだとき、福沢がまっさきにあげたのは、鍋島直彬でした。
この鍋島直彬は、維新後、ほとんどの華族が郷里を捨て、東京に移り住んだ中で、鹿島に住みつづけ、地方の文化と産業のために尽しました。そして私財を投じ、郷土の少年たちの中から人材を養成し続けました。鹿城会を設置し、経済的に恵まれない子弟の育成に力を注ぎました。
その鍋島直彬が、田澤義鋪に目をつけたのです。
つづく。
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