2010年01月06日

日本ユースホステル史の源流8

日本ユースホステル史の源流8

つづきです。

 明治十八年七月二十日。
 鹿島城の裏にある武家屋敷に男の子が生まれました。
 田澤義鋪(たざわよしはる)と名付けられました。

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 父である義陳(のぶよし)は厳格でした。家の裏に四坪ばかりの池がありましたが、義鋪は毎朝そこで泳がないと朝飯をたべさせてもらえませんでした。また寒中でも毎朝、その池のはたで、水をかぶることになっていました。それも十三杯。時には十杯ぐらいですまそうとすることもありましたが、父が数えていて十三杯を強制しました。

 厳寒の頃は、氷が張りました。義鋪にとっては、その氷を割るのが一苦労。で、彼は寝床を出る前に、女中にたのんで、その氷を割っておいてもらうことにしました。
「ねえや、もう起きるから氷を割っておいて」
という彼のいじらしい頼みは、近所の語り草になっていました。

 ところで明治二年の版籍奉還により、特権階級であった武士はみな失業しました。父・田澤義陳も、その一人でした。父は小学校の近くで文房具店をひらいて生計を立てていました。そのころ田澤義鋪家には、親戚の幸尾隆太郎があずけられ、兄弟のようにして育てられていました。幸尾は田澤義鋪より四つ年上でしたが、姉ふみよりは四つ下でした。

 ふみと隆太郎と義鋪は、毎朝父の前に坐らされて、四書五経や日本外史を教えこまれました。義鋪は、三歳ぐらいでしたが、その勉強風景をそばで見ていて、知らず知らずのうちに、四書五経や日本外史を覚えてしまうようになりました。中身を理解していたかどうかは分かりません。しかし、年上の隆太郎が舌をまくほど、四書五経や日本外史の完璧に暗記してしまった。姉や、親戚の幸尾隆太郎よりも覚えが良かった。

 その姉や、幸尾隆太郎は、小学校に向かう。
 三歳の田澤義鋪は、小学校に行けない。

 田澤義鋪は、父親に「小学校に行きたい」とせがみました。父は、それに根負けし、特別の取扱いを校長にたのみこみ、四歳の義鋪を一年に入学させたのです。頭がよいですので、学習において、彼は決して級友にひけを取りませんでしたが、何しろ満四年にも足らぬ幼児です。入学したての頃は、休み時間になりますと、母親の乳をのみによく帰ったものだそうです。

 ところで昔の小学校では、厳重な進級試験があり、合格者の名を成績順に書いて貼り出すことになっていました。ここで田澤義鋪は落第しました。成績が悪くて落第したのではなく、校長と父親との相談の結果の落第でした。早熟の弊害を避けるために下した父親の判断でした。

 田澤義鋪の父、義陳は、
 藩主鍋島直彬に仕えて維新の労苦を共にした人でした。

 鍋島直彬は勤王家でしたが、当時の佐賀本藩は、公武合体主義で佐幕に近かった。しかし勤王の鍋島直彬は、佐賀城内での最後の大評定において「もし自説が容れられなければ、切腹しますす」とまで言い切って反対論者を屈服させました。維新の志士であり、後に明治政府の元勲となった副島種臣や大隈重信が、脱藩してその罪を問われていた頃、彼らを庇護して生命を救ったのも鍋島直彬でした。

 この旧藩主が、維新後に行ったのは、人材養成でした。彼は私財を投じ、経済的に恵まれない子弟の育成に力を注ぎました。この鍋島直彬が、田澤義鋪に目をつけ、息子であり世子でもある直繩の学友に撰びました。

 その結果、田澤義鋪は、鍋島直彬に接する機会も多くなり、その感化も大きくなりました。また、父・義陳は「直彬公こそは、志士にして君子、君子にして志士と云うべき方である」と田澤義鋪に教えていましたからなおさらでした。

 この鍋島直彬は、ただの藩主ではありませんでした。良いと思ったら猪のように突っ走り、すぐに対処を行いました。鍬も持てば、剣も持ちました。剣をとったら日本有数の腕であり、若き日の田澤義鋪を相手に剣の稽古をつけました。鍋島直彬は
「小手先だけでやるのは剣道ではない」
と剣の道を説き、若者たちと城の草むしりをしながら人の道を説きました。

 この藩主の行為が、田澤義鋪の人間を変え、
 そして田澤義鋪が、日本を変えていくのです。

 田澤義鋪によって治安維持法を有名無実化させることに成功し、あと一歩で日本を大きく変えるところまでいったことは、知る人ぞ知るところです。田澤義鋪によって日本企業に日本的経営スタイルが定着したのも知る人ぞしります。この田澤義鋪が、日本のリヒャルト・シルマンとして、日本のユースホステル運動の基礎を造っていくのですが、それは、どういう方法によって造られたのでしょうか?

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 実は、これが奇想天外な方法によって日本ユースホステル運動の基礎が造られたのです。それを知ると、日本のユースホステル運動は、根っこの部分で、ドイツのものと、まるで違っていることに驚愕させられます。なぜ世界のユースホステルに、ミーティングが無くて、日本のユースホステルだけにミーティングが自然発生したかがわかるのです。それは......。


つづく。

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posted by マネージャー at 01:13| Comment(2) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
直彬公が、草むしりを若者たちとしながら、訓育していったという様が、維新後のこととはいえ、当時の元大名(たとえ小国だったとしても)とは思えぬ柔軟さを持った人物だったのですね。

直彬公が、芯から、田澤氏のような優秀な若者を育て、これらの日本に羽ばたけるように心を砕いていたのが分かります。

「平凡道を非凡に進め」という、田澤氏の言葉も、なかなか実際のところ、難しいことですよね…。

Posted by みわぼー at 2010年01月07日 10:16
鍋島直彬が、したことは、かって鍋島直彬が受けたことでもあるんですね。鍋島直彬は、藩全体で英才教育を受け、そのおかげで藩の危機を救うことが出来ました。その勝ちパターンを知っているからこそ、田澤義鋪などの偉人を養成できたんだと思います。田澤義鋪だけではありません。もっと大勢の偉人を育てていますから、実に凄いモノです。

Posted by マネージャー at 2010年01月08日 01:33
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