つづきです。
話が、脱線しすぎました。
田澤義鋪の話です。
田澤義鋪が、日本のユースホステル運動の基礎を造った話です。
田澤義鋪は、熊本の第五高等学校を卒業し、東大法学部に入学します。専攻は政治学でした。明治三十八年(一九一五)九月、二十歳の時です。この頃の法学部は四年制(現在でいう五年制と同じ)だったので、明治四十二年七月に卒業しています。超エリートコースを進んでます。
そして、旧藩主鍋島直彬庇護の下に佐賀県全体の在京学生会幹事となり、維新の元勲大隈重信をはじめ、郷土出身の諸先輩の家に出入し、将来が約束された出世コースの王道をすすみました。そして卒業旅行に、日露戦後の満州・朝鮮地方を視察。横暴な日本人をみかけて衝撃を受けます。
「海外発展? それが何だ。もし日本民族の情感と道義とが永久にこのままであるとするならば、それは発展どころか、恥辱の拡大であり、民族的怨恨の種をまきちらすに過ぎないのではないか。それでは、地図の上ではどんなに発展しようとも、遠からず国の基礎がゆらぐであろう。道義なくして何の国家だ。日本は東洋のならず者になってはならない・・・・・・」
明治四十二年七月、東大法学部の政治学科を卒業した田沢は、その年の十一月に、高等文官行政科を受験して合格。辞令をもらって、明治四十三年四月の末から静岡県庁に勤めます。そして四ヵ月ばかり、地方官の見習いをし、八月、二十五歳で静岡県安倍郡長に任命されます。
当時は「県」のしたに「郡」という行政単位があったのです。
そして「郡」の下に市町村がありました。
その郡長に任命されたわけです。
安倍郡は、静岡市の周辺にある二町二十二ヵ村から成っています。そこのトップに任命されたわけですが、田澤義鋪は、自らを鍋島直彬のイメージで律しました。町村視察のたびに、士地の青年たちと胸襟をひらいて語りあいました。鍋島直彬のようにです。日曜は草鞋がけで遠い山村をたずねました。そして懇談会をひらきました。しかし土地の青年たちは、必ずしも大人しくはありませんでした。
「議長!」
「なんでしょう」
「今度の懇談会の通知状をみると、洋服または袴着用と書いてあります。郡当局は、我々青年がみな袴をもっていると思っていられるのですか。いや、それよりもおかしなことは、洋服ならばつめ襟でも背広でもよく、日本服ならなぜ袴をつけなければならないのですか。西洋崇拝もはなはだしいではありませんか」
幹事役の視学が、青ざめました。
役所の面目丸つぶれだと。
「いや、べつに西洋崇拝しているわけではありませんが、町村幹部の方々だから、たいていお持ちのことと思いまして」
「私の申しているのは、根本の精神です。農装のまま野良からとんで来てくれ、と呼びかけてもらいたいのです」
青年たちの席から、共鳴の拍手。
役人たちは、冷や汗をかきました。
しかし田澤義鋪は笑顔で答えました。
「いや、これは一言もない。この次から、真面目な服装でさえあれば、なんでもいいということにしよう。こういう有益な意見をどしどし聞かしてもらうのがこの会合の一つの目的だが、今日は、それが大いに成功した証拠を見せてもらって有りがたい」
田沢の言葉に、拍手がわきました。
また田澤義鋪は、補習教育に力をいれました。青年の教育と出席を奨助することに着意し、自彊旗という優勝旗をつくりました。月桂冠の中に「自彊」という文字を染めぬいたもので、明治天皇が当時の国民の精神のよりどころとして示された「戊申詔書」中の「自彊やまざるべし」というお言葉にちなんだものであった。この優勝旗は、出席歩合の優秀な町村に与えるもので、三年つづけて獲得すれば、永久に貰い切りになるというきまりでした。このために補習教育熱が高まり、青年の気風が改まるいとぐちとなりました。
田澤義鋪も、夜間の補習学校の講義を受け持ちました。郡長みずから教師をするために、安部郡を走り回りました。そして移動時間を節約するために、当時、まだ高価であった自転車を購入し、役所が終わった後に、彼は近所の空地で、自転車乗りの稽古をはじめました。何度も田畑の突っこんで泥だらけになったといいます。
そして乗り廻せるようになると村々をめぐりました。
電灯のない夜道。
提灯を片手に自転車を走らせました。
補習教育の改革も行いました。普通教育の他に、実学(農業)・公民教育もすすめました。県立農学校から優秀な卒業生をおくってもらい、郡費の補助により町村に配置しました。田澤義鋪は月一回、これらの人と懇談会をひらき、時には彼らを自宅に招いて、野菜持ちよりの夕食会をひらき、農村の実情を調査しました。
また田澤義鋪は、農村生活の問題点をあげ、それに対する解決の研究を、補修学校の生徒たちに研究させました。この方法は、日本青年団に受け継がれましたが、日本ユースホステル協会にも受け継がれています。ただ、日本ユースホステル協会の関係者は、どうして、こんなことをするのか?不思議がっている人もいますし、私も、その一人でした。研修会・分科会があるたびに、どうして、こんなことを話し合うのだろう?と不思議に思っていました。こんなことより、偉い人の話でも聞きたいと思っていました。
しかし、そうではないのですね。
田澤義鋪は、自分のことは自分で解決しなければならないと考えていたのです。学ぶだけではなく実践しなければならない。そのためには、自ら問題点をさがし、自らその解決方法をみつけだし、自ら実践しなければならない。そういう思想が、日本ユースホステル協会をたちあげた横山祐吉まで繋がっていっているのです。だから横山祐吉氏は、イデオロギーや運動論を極端に嫌っていたわけです。
さらに田澤義鋪は「農業に農事試験場があり、工業に工業試験場があるならば、地方自治の振興に自治試験場なかるべからず」と考え、村治研究会を通して、よいと思う案をどしどし実行してみるという実験まで行いました。このような田澤義鋪の政策によって、安部郡は、日に日に活気づいていきました。
そして、静岡市外千代田村の蓮永寺において、日本のユースホステルの元祖ともいえる講習会が開かれるのです。大正三年(一九一四)三月十五日のことです。ドイツのアルテナに世界最初のユースホステルが誕生してから2年後のことです。日本にも革命的な事件がおきるのです。
つづく。
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