つづきです。
大正三年(一九一四)三月十五日。静岡市外千代田村にある日蓮宗の名利、蓮永寺で、壮大な実験が行われました。田澤義鋪が、安部郡の郡長になって3年後のことです。
田澤義鋪は、この三年間、懸命に青年指導をやってきました。しかし、何か物足りなかった。自分が恩師、鍋島直彬ほどの力を発揮できてないことに不満がありました。そこで考えたことは、自ら青年と寝食を共にしながら、おたがいの人格を磨き合うしかないと考えました。そして、当時としては全く破天荒な、郡長と青年との一過間の共同宿泊講習を蓮永寺で行うことにしたのです。
今でこそ指導者と受講者とが寝食を共にする宿泊講習は、目新しいことではありませんが、当時においては、革新的なことであり、郡のトップが、青年と寝食を共にする宿泊講習は、日本で初めてであり、世界的にも珍しいケースであったかもしれません。ドイツのユースホステル運動を除けばですが。
講習生は、二十五名。いずれも各町村から撰ばれた青年たちで、米や夜具を車につんで、集ってきた若者たちでした。年令は最年長は二十六歳、最年少は十九歳。学歴もまちまち。旧制中学卒業の者あり、小学校四年修了の者あり、妻ある者十三名、子女ある者六名。しかも、彼らのうち、誰一人として、これから何が始まるか、知っているものがない。ただ割当てられた部屋に、見知らぬ者どうしが、ボーゼンと、かしこまって坐っているという状態でした。
やがて昼食になりました。
袴田視学が、青年たちの席を案内しました。
正面には田澤義鋪、隣には寺の丹沢住職が坐っていました。
食事は、いたって粗末なもので、一汁一菜。真黒な麦飯でした。
「こんな麦飯が食えるものか」
と思った青年たちでしたが、郡長も住職も、うまそうに食べている。
「郡長さまさえ食べていなさる。自分に食べられぬではバチがあたる」
と、目をつぶって押しこみました。給仕は、高級官師が行いました。これにも青年たちは、まごつきました。恐れおおくて、お代りを出しにくかった。こうして、1週間の合宿が始まったのですが、郡のトップである田澤義鋪みずから、身分をこえて青年たちと気さくな雑談をはじめました。
第一回の講義は、夕食後に始めました。田澤義鋪が、憲法について分かりやすく解説しました。講義のあとは、ミーティング(懇談会)を行いました。青年たちは、きかれるままに、村の現状などについて語りました。田澤義鋪は、彼らの話をききおわると、宿題をだしました。
「諸君のめいめいの村についての問題は、今後十分に時間をかけ、実際についておたがいに研究もし、対策も立てたいと思うが、取りあえず、この講習期間中に、ぜひとも諸君に研究してもらいたい問題がある。それは金の使い方だ」
「・・・」
「七十円。この七十円を、わが安倍郡のために、これ以上有効な使い方はないというほどまでに生かして使いたいと思っているが、それを一つ諸君に考えてもらいたい。共同の研究も面白いが、今度は一人一人で考えた結果をめいめい答案にして、出してもらうことにしよう。私は、この金の提供者と相談して、その中から最優秀のものを一つだけ選んで、その案の通りに、この金を使って見たいと思っているんだ」
「郡長さん、いったいその金の提供者はどなたですか。また何のために提供されたんです?」
「不二見村の江川昌平翁だ。翁は御承知のように、長い間村長や県会議員をつとめられたが、先般老齢の故をもって辞任されるにあたり、県の支会から記念品代として、この金がおくられたわけだ。ところが、翁は、その金を持って私を訪ねて来られ、郡の基本財産にでもしてもらいたい、といって寄付を申し出られた」
「・・・」
「七十円の金額は郡の財政から見ると大したものではないが、その意義は実に大きい。だから、もっと光る使い方があるのではあるまいか思った。そこで私は江川さんにお願して、宿題として諸君の前に提供して、講習会の一過間のあいだ真剣に考えてもらうことにしたわけだ」
「・・・」
第二日目から本格的な講習会がはじまりました。
昼間の講義は午前と午後で六時間です。
あとは広い寺内の掃除、入浴後の自由時間。
夕食後はみんな一緒に附近を散歩しました。
夜は課外講話が一時間ほど、それが終ると質疑応答。
つづいてミーティング。
お茶に駄菓子をたべながらの談話です。
寝る前は、静坐して黙想です。
講師は田澤義鋪が中心ですが、彼は郡長です。役所を休むわけにはいきませんから、朝の講義を九時までにすまし、急いで自転車にとび乗って役所に駆けつけ、牛後は、早目に帰ってきて寝食を共にしました。その留守中は、袴田視学と稲垣技手が、講師の送迎や青年の指導に当りました。
講習は講義のほかに、実地見学。県庁に出かけて、内務部長の案内と説明で、県政の実際や議事堂なども見学しました。
青年たちは、しだいに田澤義鋪に親しみをおぼえました。平素そばにもよれないように思っていた郡長と寝食を共にするばかりでなく、一緒に草をむしったり、落葉をはいたりしながら、村の話、わが家の暮し、心の悩みをきいてもらうことは、まるで夢みる心地でした。
しかし、田澤義鋪にしてみれば、かって鍋島直彬が自分にしていただいたことを、安部郡の青年たちにお返ししているだけであって、別に特別なことをしたとは思っていないのです。それがまた青年たちの心を揺り動かしました。
また、田澤義鋪は、誰よりも早く起き、すすんで掃除・洗濯・食事の準備を行いました。誰もが嫌がるトイレ掃除などは、真っ先に行いました。それは、恐れおおいと青年たちは、後に続きました。そして、一緒に掃除などをするわけですが、田澤義鋪と一緒にする掃除は、本当に楽しそうでした。
なぜならば、田澤義鋪は、実に人の話を良く聞いてくれるし、そのうえ素晴らしいアイデアをだしてくれる。しかし、決して田澤義鋪から回答は出さない。回答は、本人が自分で見つけられるようにする。こういう具合でした。もし、名教師というものが、この世にいるとすれば、田澤義鋪こそ名教師かもしれません。この田澤義鋪の名教師ぶりを、弟子である安積得也氏が、こんな詩にしています。
名教師
あなたについていると
自然に勉強したくなる
研究が面白くて止められない
あなたの手にかかると
ふしぎと自信が湧いて
突き当った壁から光明がさしでくる
あなたのものさしを見ると
恥かしくていい気になれない
世界水準が私の眼を油断から救う
あなたの周囲にいる人は
めいめいの景色を許されながら
正直な持ち味で胸いっぱいの呼吸をする
あなたの下では
苦しみをも楽しみながら
誰も誰も優等生だ
<安積得也詩集「一人のために」より>
講習の終りに近く江川翁提供の七十円の有効使用法の答案が、二十五人の講習生から集まりました。いずれも捨てるには惜しいものばかりでしたが、特に二つは、すぐ実行に移して見たい名案でした。
その一つは養鶏改良案で、まず白色レグホンとかミノルカとか、品種のよいニワトリのヒナを買って、雄一羽・雌三羽を一組とし、各町村毎に経験ある青年をえらび、これに委托飼育させる。その期間は二年を一期として、大きくなった親どりは飼育者にやり、初めの数だけのヒナを返させ、今度はつぎの青年を選抜委託する。これを順次くりかえして行けば、安倍郡の養鶏改良は、期せずしてできるというのである。
もう一つの案は、巡廻文庫の増設であった。七十円で文庫をふやし、江川翁の寄付の由来を書き、その中の本は他の文庫のように雑多な本ではなく、江川翁が一生魂をうちこんだ、町村自治と産業組合関係の本のみを集めるというのである。こうすれば、郡下の青年は永く江川翁の功をしのびながら、しぜん研究も進むであろう。
「江川さん、どうですか、この案は?」
「名案です。青年諸君を見直しました。わしはあのとき、この七十円を自分の財布に入れないでよかった。入れればそれきりで、こんなすばらしい使い方はできなかったはずじゃ。わしは諸君にお礼を申すとともに、攻めて田澤郡長に心から感謝したい」
こうして一週間にわたった講習会は終りました。
だれもが、別れがたい思いを残して。
閉会式。
田沢は、別れをつげに来る一人一人の手を、
かたく握って、短かいはげましの言葉をのべました。
みんな涙をためていました。
この一週間の宿泊講習の体験に味をしめた田澤義鋪は、これを拡大したいと思った。選ばれた青年たちのためだけでなく、広く一般の青年たちのために作ってやる必要を感じたのです。
しかし、それには一週間という期間は長すぎる。
家庭の事情や費用などのことを考えると、無理がある。
もっと手軽にやる方法はないものだろうか?
たとえ1日でもよい。
一般の貧しい大勢の青年たちと寝食を共にする機会が欲しい。
そう考えた田澤義鋪は、静岡の歩兵連隊を訪ねた時に、たまたま行われていたテント作業を見て、ひらめきました。
「これだ! これを使えば大勢の青年たちを宿泊講習によべる」
こうして、日本初の天幕(テント)講習が、三保の松原で行われることになるのです。そして、そこに参加したのが田澤義鋪の友人であり、成蹊大学の開祖でもある中村春二でした。
つづく。
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