つづきです。
天幕講習が終わった頃、大豪雨となりました。
安倍川の堤防が至るところで決壊し、市内の大半が水没しました。
田澤義鋪は、安倍川水害予防組合の青年たちをひきいて奮闘しました。
郡長みずから、胸まで水につかって陣頭指揮をしました。
水が引いたあとは、堤防の復旧、罹災者の援護等に走り回りました。
それは若き日の鍋島直彬の姿、そのままでした。
その時、静岡県理事官に任ずという転任の辞令が田澤義鋪のもとに届きました。
栄転でした。
しかし田澤義鋪は激怒し辞表を持って、県庁にのりこみました。
知事は後年内大臣として活躍した湯浅倉平でした。
「閣下、田沢ではこの水害の善後策はできない、とお考えでしようか。私は、県の課長として使っていただくよりも、安倍郡長として、治水事業を完成させていただきたいのです。どうしてもそれがお許しいただけなければ、辞表を提出いたします」
この態度に湯浅知事は、怒るでもなく、むしろ感動の気持ちをもって聞き届け、そのうえで組織の人事計画について語り、田澤義鋪を説得しました。田澤義鋪は、辞表を引っ込め、知事の説得を受け入れました。後年、この知事の引き立てによって、田澤義鋪は国会議員になることになります。
明治四十五年七月三十日。
明治天皇がお亡くなりになりました。
それを偲ぶために神宮造営局の官制が公布され、大正四年四月から、総面積約二十二万坪、六ヶ年にわたる工事がスタートしました。この国民的な大事業の中枢、造営局総務課長に田澤義鋪が就任したのが、大正四年四月のことです。
しかし、この工事は、物価高と人手不足のために難航しました。第一次大戦の勃発による史上空前の好景気におされて、労動力不足のために工事が全く進まなかったのです。担当者たちは、青ざめました。そこに田澤義鋪が解決案をだしたのです。
「この難局を地方青年団の労力奉仕でのりきりたい」
しかし、この案を技術陣たちは鼻先で笑いました。
「素人に何が出来るんだ?」
「足手まといになるだけだろう」
田澤義鋪は笑いものにされました。
確かに素人は、足手まといになるかもしれない。
「しかし、青年団の実情を知っていれば、そうとも言えまい」
というのが田澤義鋪の目算でした。
明治維新前の青年たちには、仕事がありました。警備、消防、災害救助、神事、祭、公共事業、社会教育などの仕事です。彼らは、子供を卒業すると、自宅には寝泊まりせず、若者宿(若衆宿・郷中宿)で寝泊まりしました。そして、そこから仕事に出て行きました。結婚すると、自動的に若者宿(若衆宿・郷中宿)を出て行き、今度は大人(オトナ)と呼ばれる世界に仲間入りしました。明治維新がおきるまでの日本では、大人(オトナ)の世界と、若者組の世界の二重構造になっており、警察や祭礼や公共事業は、若者組の役割であり、家を守るのは大人組の役割でした。
若者組は、治安維持や道路、橋梁の修繕、堤防の築造などのいろいろな仕事に対し、一人前として責務を果たさなければなりませんでした。しかし、子どもと大人の間の人生の多感な頃を同世代の者達と寝食を共に楽しく過ごしました。そして大人への仲間入りをするためのしきたりなどを学びました。
彼らは、決して素人ではなかったのです。
「では、実験をしてみませんか?」
「実験?」
「ごく少数の青年団を上京させ、試験的に使ってみるのです。そして運用成績が良ければ、徐々に人数を拡大していくのです」
「実験?ですか?」
「ダメもとです。うまくいったら儲けものですよ。やってみましょう」
「そんな実験、やらなくても結果は見えてると思いますがねえ」
こうして田澤義鋪は、なんとか会議をのりきり、かって安倍郡役所で苦労をともにした青年たちに連絡をとり、安倍郡の青年五十名をかき集めました。やがて青年たちは、田澤義鋪のもとにやってきました。みんな田澤義鋪を懐かしそうに「郡長」と呼びました。
「郡長、やって来ました!」
「郡長、お久しぶりです!」
「郡長、また一緒に働けますね!」
青年たちは、その日から十日間、千駄ヶ谷の寺院に分宿して、作業に従事しました。
ただし、作業だけではありませんでした。
作業が終わると、寺院の宿舎で懇談会(ミーティング)を行いました。
これが青年たちの一番の楽しみでした。
この楽しみのために、上京したようなものです。
懇談会(ミーティング)には、田澤義鋪の他に高木兼寛、吉田茂など、当代一流の名士が代る代るやって来て、青年と膝を交えて語ってくれました。これには青年たちも感激しました。この伝統は、後に日本ユースホステル協会が設立されたときにも受け継がれ、下中弥三郎や賀川豊彦や大宅壮一などの各界の名士たちが、日本ユースホステル協会の懇談会(ミーティング)に参加しています。
そして、試験期間の十日が終わって、青年たちが静岡県安部郡に帰っていったあと、「素人に何が出来るんだ?」と言っていた造営局の技術陣たちは、その成績に驚愕しました。専門土工より、四倍から五倍のノルマを達成していたからです。
有度村の奉仕団が引きあげると、
つづいて安倍郡全体から別の二隊がやって来ました。
もちろん成績は変りはありません。
専門家の四倍から五倍のノルマを達成して帰って行きました。
技術陣たちの見方が一変しました。
「土工は青年団に限る」
という声さえでてきました。
こうして本格的に青年奉仕団の募集が発表。
たちまち全国各地から申込みが殺到し、
その受入の設備に悲鳴をあげました。
二百八十余団体一万五千人、
延日数十五万日の奉仕団が集まったのです。
そして各地から送られた青年たちが、仮設住宅に寝泊まりし、
昼は勤労奉仕。夜は、懇談会(ミーティング)。
そして修養的諸行事を行いました。
この後、日本初のユースホステルが誕生することになります。
つづく。
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