2010年01月29日

日本ユースホステル史の源流14

日本ユースホステル史の源流14

つづきです。

 明治神宮造営は、第一次世界大戦勃発の翌年大正四年からはじまりました。当時、第一次大戦の影響をうけて物価や労賃が急騰し、人夫が思うように集まりませんでした。明治神宮造営局総務課長田澤義鋪は、青年団の労力奉仕を建議しましたが、この案は一蹴されました。

 田澤は試験的に数団体を奉仕させることを再提案。かつて郡長時代に指導した静岡県安倍郡有度村の青年団員五十人を呼んで奉仕に当たらせました。結果は、十日間で人夫の数倍の能率をあげました。

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 驚いた政府は、田澤に全面的に許可を与え、全国各地からぞくぞくと青年たちが上京しました。一団体はほぼ五、六十名。毛布と米を各自持参し、十日間の労力奉仕。朝夕はバラックの宿舎で講義と懇談会(ミーティング)がもたれました。バラックは北海道村、鹿児島村と呼ばれ、そこで村長や議員の選挙が行われました。これがそのまま青年の政治教育でした。

 こうして大正九年十一月一日、明治神宮鎮座祭が行われました。そして内務・文部両省の主催で、全国青年団神宮代参者大会が開催。その大会の二日目、大正九年十一月二十二日に、皇太子殿下(昭和天皇)は、青年団の代表たちに、お言葉をだしました。空前の光栄でした。

 代表者たちは、感激のあまり、大正時代の青年の意気を後世に残したいと提案し、みんなで相談し合いました。その結果、青年の修養道場としての日本青年館建設を行いたいと考えました。青年たちの修養所を明治神宮のそばに造りたいと。

 しかし、そこに横槍がでました。

「日本青年館建設は、内務省が発起者となって行うべきだ」

しかし、内務大臣床次竹二郎は、その横槍をはねのけました。

「この事業は、青年自身の努力によって完成させることが大切である。あくまで青年の自発的発意にもとづくべきものである」

 英断でした。
 床次竹二郎は、青年たちの自発的意志を大切にしました。

 これに奮い立った全国各地の青年団で青年館建設の件を団員にはかり、財団法人日本青年館の設立を、内務、文部両大臣に委嘱することが決議されました。そして全国一万一五六六の青年団は、建設資金を拠出することを申し出ました。

 委任を受けた床次内務大臣、中橋文部大臣は、内務省から社会局長田子一民、文部省から普通学務局長赤司鷹一郎、民間から公爵近衛文磨、田澤義鋪を選び、財団設立者として推挙、法人化の準備に入りました。

 こうして大正十年九月二日、財団法人日本青年館が設立されました。のちの日本のユースホステル1号になります。そして財団法人日本青年館の事務局長の横山祐吉が、日本ユースホステル協会を設立することになります。

 一方、青年団は建設資金を得るため、植林作業や土木作業、縄ない、炭俵編みなどから、映画、芝居、相撲などのレクリェーションにまで手をのばし、さらには、節酒、節煙などの励行で、青年団員一人一円の資金を生みだしました。

 一円は当時の労賃で三日分に相当します。今の金額にすれば、2万円くらいのものでしょうか? 募金額の合計は約二百万円。二百万人の貧しい青年たちが1円を寄付したことになります。その寄付金をもって、政府の補助も、財界の寄付も受けることなく、大正十四年十月、日本青年館が完成しました。

 といっても青年団の中には、日本青年館建設に反対する者もあり、長野の青年団は反対の急先鋒でした。大正十年七月二十七日付の朝日新聞は、「趣旨不徹底から各地青年団中に反対気勢挙げる」の見出しで反対運動の事例を紹介しています。日本青年館建設の雲行きは険悪で、楽観をゆるさないものがあったと、創立理事田子一民が後に語っています。

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 大正十一年十二月日本青年館の建設工事開始。十四年十月に、総工費百六十二万円をかけて、地上四階、地下一階の日本青年館が完成しました。最新設計による耐震性に備えた鉄筋コンクリートの豪華な施設でした。

 最大収容二千人の講堂、定員六百人の中講堂、談話室(定員三十〜百人)、図書室、四百ベットの宿泊施設。食堂は宴会用(定員三百五十人)と宿泊者用(定員二百人)が完備。大浴場、売店などが付設されました。

 当時としてはかなり豪華な建物でしたが、ここには田澤義鋪の知恵が入っていました。最大収容二千人の講堂や、レストランの売り上げで収益をあげ、その資金をもって地方の青年たちに格安の宿と研修所を提供する。つまり、豪華な施設は、金のなる樹で、その樹をもって地方の青年たちに便宜をはかるというシステムなのです。

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 この発想が、後の日本ユースホステル協会にはありませんでした。逆に言うと、この発想によって財力が得られたために、日本青年館の寿命が日本ユースホステル協会よりも寿命が伸びることになります。田澤義鋪の先見性には、おどろくべきものがあります。日本ユースホステル協会にも、そういう先見性があれば、歴史は変わっていたかもしれません。

 さて、日本青年館が完成した後の田澤義鋪は、どうなったのか?
 日本青年館の関係で働いたのか?
 それとも内務省で出世階段を上がっていったのか?

 どちらもノーです。

 田澤義鋪は、この後、どうなったのでしょうか?
 実は、田澤義鋪は、日本の歴史を変える仕事をはじめるのです。

 マルクス主義の嵐が吹き荒れる時代でした。
 日本ユースホステル協会初代会長下中弥三郎が、
 日本初教員組合を結成し、メーデーの行進を行っていました。

 日本ユースホステル協会理事であった大宅壮一氏は、
 社会主義者として、さかんに反政府運動をおこなっていました。

 そういう時代に、社会を大きく変えたのが田澤義鋪でした。
 どうやって社会をかえていったのか?

つづく。

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posted by マネージャー at 02:34| Comment(0) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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