日本最初の天幕講習をはじめたのは、田澤義鋪でした。この田澤義鋪が、日本青年館、つまり日本で最初のユースホステルをつくる基礎を造るのですが、この田澤義鋪は、天幕講習を通じて、ある男と出会い、日本を大改革していくのです。私たちは、その大改革の遺産を有形無形にうけついでおり、この豊かな日本で生きているのですが、その遺産の原点が何であるかを、みんな知らないでいると思います。
イエローハットの鍵山秀三郎氏は、その遺産の後継者でもありますが、鍵山秀三郎氏も、自分がセッセと行っている掃除という『行』および『修養』の原点が、どこにあるか分かっていないかもしれません。だから掃除行を日本の文化と言っているのだと思います。しかし、本当に掃除が、かっての日本の文化であったのでしょうか? 文化であったとしたら、いつ、どこで生まれたのでしょうか?
蓮沼門三という男がいました。
掃除という修養によって革命を起こした男です。
蓮沼門三は、福島県会津地方の小村の雪の舞う道ばたで生まれた。父は、熊の胆の販売で関西へ出かけ、同業者の手で金品を奪われ殺されました。そのうえ祖父は、詐欺にかかって財産を全て奪われ、北海道へ夜逃げしました。乳飲み子を抱えた母と門三は、洗濯、針仕事、走り使い、田畑の手伝いなどで、なんとか親子二人の命をつなぎました。門三が三歳のとき、母子は、会津喜多方の岩月村に住む蓮沼家の住み込みのお手伝いになり、やがて蓮沼家に嫁ぎ、門三は蓮沼家の養子になりました。
蓮沼門三は、小さな妹たちのお守りをしながら小学校に通いました。彼には人徳があり、子供たちは蓮沼門三のところに集まりました。蓮沼門三は、小さいときから子守や飯炊きをしながら遊ぶので、
「飯を見てくるから」
「子どもが泣いているから」
「風呂を見てくるから」
などと言っては、遊びの場から離れたりした。それを良く思ってない子供たちの親たちは
「貰い子のくせに生意気な」
と言い、我が子には
「貰い子に使われる意気地なし」
と言うこともありました。
しかし、蓮沼門三は、それにくじけることもなく、彼の発案で村道の美化を行いました。村は、神道を信仰する村だったので、村の美化は、信仰篤い村民に喜ばれました。神道は、清浄を尊ぶからです。また、仲間に呼びかけ、氷を切り出して町に届けて収入を得、幻灯機を買ったりしました。そうやって村一番の模範少年と言われるようになり、「貰い子のくせに生意気な」と母親に肩身の狭い思いをさせないようにしました。
こうして成長した蓮沼門三は、独学で教員試験を受けて合格し、山村の小学校の先生となって活躍しました。そして福島の師範学校へ受験し、二度落第しました。筆記ではなく面接で落とされました。三度目は、東京府師範学校(東京学芸大学の前身)を受け、今度は合格。二十一歳のときでした。
そして東京師範学校に入学。
寄宿舎に入りました。
その寄宿舎は汚れ放題で不潔極まりなかった。
当時は、バンカラがはやっていた。
みんな
「大事業を成就しようとする者は、ささいなことにはこだわらない」
と言って泥靴で寄宿舎内を歩き、掃除など一切しない。汚れ放題になってしました。
蓮沼門三は、舎監に清掃美化を呼びかけましたが、
「学生たちが言うことをきかない」
とあきらめていました。
「この学校は教師、いや聖職者を養成する学校です。いわば聖人をつくる場所でもあります。なのに、その寄宿舎を荒れ放題にして、汚しまくる学生たちを放置し、平然とする神経がわかりません」
「しかしなあ」
「私は、極貧の山村で生まれ育ちました。私の友や兄弟は、金がないために学校にも行けずに苦労している者も多いです。彼ら極貧の者たちが、学費無料の師範学校で、そして税金で造られた立派な寄宿舎を、このように粗末に使っているのをみたら何というでしょうか?」
「・・・・」
蓮沼門三は、同室の学友に寄宿舎美化の協力を呼びかけましたが、協力する者はゼロでした。当時の日本国民は、日清戦争・日露戦争に勝利し、酔っていました。学生たちは、星雲の志を抱いて上京しており、清掃する時間があったら時局を談じ、西洋の学問をわれさきに学ばんとする時代でした。
蓮沼門三は、他人をあてにしてはダメだと悟りました。
そして彼は、黙々と唯一人で部屋と廊下を拭きはじめました。
それは入学した翌年の四月のことでした。
しかし、まわりは冷たかった。
「学校のご機嫌とりを始めた」
「偽善者め」
憎悪をむき出しにする者も現れ、わざと泥靴で汚して妨害したりしました。
イジメは、大昔の師範学校にも存在していました。
それでも寄宿舎は、少しづつ綺麗になっていきました。
冬は、朝夕に水仕事をするので、
門三の手の甲は全面にひび割れができました。
剣道の寒稽古のときには、
門三のことをよく思っていない者たちが
彼の小手を狙って打ちました。
彼の手と腕は腫れ上がりました。
ある朝、汲み置きしていたバケツの薄氷を割って雑巾を絞ったとき、腫れ上がった手の甲が破れ、鮮血が噴き出してバケツの水を染めました。それでも彼は雑巾がけをつづけました。それを見た同室の一人が、鮮血をぬぐいつつひたむきに美化奉仕を行う彼を見ているうちに、胸の中からどうしようもなく熱いものがこみ上げてきた。そして、友は門三に駆け寄り、手をしっかりと握って言った。
「蓮沼君、許してくれ。君の尊い心が今分かった。明日から手伝わせてくれ」
「ありがとう、ありがとう」
蓮沼門三の手に友の涙が流れた、その血と涙が混じり合いました。
その後、少しづつ賛同者が広がっていき、いつしか寮生の大半が、蓮沼門三の掃除を手伝うようになりました。こうなると泥靴で寄宿舎にあがる者はいなくなりました。わざと汚す者もいなくなり、みんなが住処をきれいにするようになりました。トイレも清潔になり、部屋に花を活けたり、額をかざるようになりました。
さらに蓮沼門三は、仲間をつのって師範学校内に風紀革正会を作って、学校内でさまざまな改革を行いました。学生たちの手で校内売店の経営、食堂の改革、花壇の造成などが行われ、東京師範学校は日本一美しいキャンパスとなりました。
そして三年生の秋、二つの論文
「修養団設立の趣旨」
「人格修養の急務」
を同志に示しました。
一、師範の学生は教職を神聖なものと自覚すること、
二、社会改革の先導者になるという意識に目覚めること、
三、それらのために「修養団」を設立すること。
そして蓮沼門三は、修養団を旗揚げすべく準備をすすめました。
明治三十九年二月十一日、東京師範学校の食堂において、修養団の発会式が行われました。同志の師範生四百名。師範学校長・滝沢菊太郎の祝辞のあと、発起人の蓮沼門三は、壇上に立ちました。門三は誠と情熱をこめて、修養団創立の趣旨を読み上げました。数百名の同志は感激の極に達し、万雷の拍手と歓呼はいつまでもつづきました。
この修養団の蓮沼門三が、田澤義鋪と出会い、戦前の社会教育において輝かしい成果を上げ、一世を風摩するのです。青年団の多くは、修養団の団員でもありました。渋沢栄一をはじめとして、松下幸之助(松下電器相談役)、土光敏夫(東芝相談役)なども修養団の関係者であったことは知ることぞしる話です。
さて、ここで、面白い話があります。修養団と逆の流れを造った男がいるのです。平凡社の社長、下中弥三郎です。日本最初の教員組合を作り、第1回メーデーを盛り上げた無政府主義者(アナーキスト)の重鎮でもあります。この男が、日本ユースホステル協会の初代会長に就任するわけですが、日本ユースホステル協会には、2つの流れがあったのです。
修養団(蓮沼門三)と青年団(田澤義鋪)の流れ。
下中弥三郎(教員組合)の流れです。
2つの流れは、思想的に相反する流れなのですが、この相反する流れが、彼らの弟子の時代に合流して、日本ユースホステル協会となるのです。日本ユースホステル協会を創設したのは、中山正男と横山祐吉なのですが、中山正男は、下中弥三郎の流れの人でした。そして、横山祐吉は、修養団(蓮沼門三)と青年団(田澤義鋪)の流れでした。この相反する2つの激流が、一本の川となって、日本ユースホステル協会という大河に生まれ変わるのですが、それは後の話です。
としあえず、蓮沼門三について、もうすこし述べてみましょう。
蓮沼門三が田澤義鋪と出会って、
日本が、どのように変化したか?
という話をしてみたいと思います。
つづく。
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