父親が、成績が悪い私にガリ勉を要求しだしたのです。
テストの点が悪いと、遠慮無く私を殴りつけました。
そのうえ小学校教師である母親が、私と同じ学年を担当することになり、家に帰ると、母親が私の勉強をみだしました。具体的にいうと、授業の予習をさせました。その結果、私は、とんでもないことになりました。
学校が、つまらなくなってしまったのです。
どんな授業も、すでに自宅で予習してあったために、教室の授業が、まるでつまらないのです。そのために、授業中に漫画を描いたり、悪戯をしたり、居眠りをしました。
団塊世代先生は、そんな私を注意し、何か質問などをするのですが、すでに予習してあるので答えられました。しかし、それで学校の成績が良かったかというと、全くダメでした。だいたい授業がつまらなくて、授業をサボっていますので、成績が良くなる訳がありません。だから私は、今でも、公立小学校においての授業の予習は、害毒そのものだと思っています。
公立小学校では、授業は絶対に予習してはダメ。
むしろ予習は禁止し、
学校で先生から楽しく学ぶことに専念する。
どうしても勉強させたいなら復習だけにする。
これが公立小学校においての子供の正しい勉強だと思います。
でないと、子供は授業嫌いになってしまいます。
まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、団塊世代先生は、新任であるために、それなりに教育熱心でした。そして私に対して不思議そうに首を捻っていました。どうして、授業をサボっているのに質問しても答えられるのだろう? なのに、どうしてテストの点が悪いのだろう?と。教育熱心な先生であればあるほど、そういう疑問が湧いたのだと思います。それを事あるごとく教室で言いましたし、家庭訪問でも言いました。私は、そんな団塊世代先生に漠然と
「何で、そんなに頭の悪いことを言うのだろう?」
と不思議に思っていましたが黙っていました。
下手なことを言って、告げ口されて厳格な父親を怒らしたくなかったし、母親から余計に勉強をみさせられたらたまったものでなかったからです。だから黙っていました。
そして小学校5年になると、
大事件がおきました。
父親が浜松に単身赴任で転勤してしまったのです。
厳格な父親がいなくなりますと、これ幸いとばかりに、
自宅で予習するのをやめてしまいました。
もちろん復習なんかするわけがない。
つまり、全く勉強しなくなったのです。
かわりに毎日遊びまくりました。
すると意外なことがおきました。
成績がアップしました。
具体的に言うと通知表が4と5ばかりになりました。
こんな事は、生まれて初めてでした。
(ちなみに中学になると父親が単身赴任から帰ってきて、また成績が下降した)
世間の先生や親たちは、
「遊ぶだけで、成績がよくなるわけがない」
と思うでしょうが、事実は小説よりも奇なりです。
どうして成績がアップしたのか、ちょっと説明してみます。
私は、遊びに熱中するあまり、
オタク世界にまっしぐらに進んでいました。
まず切手。切手オタクに走るあまり、切手情報なら何でも知っていました。小学校5年生で国立公園と国定公園を全部言えましたし、どこにあるかも地図で知っていました。そういう切手のシリーズがあったからです。
広重の五十三次名所図会にも調味をもち、五十三次ことなら何でも言えるようにもなりました。そういう切手のシリーズがあったからです。切手オタクの道を極めると、小学5年生の子供を、高校生並みの知識魔に成長させうるのです。当時はインターネットが無かったので、切手オタクたちは、図書館にいりびたりました。
軍事オタク・兵器オタクの道にもすすみました。
艦上戦闘機・翼面過重・馬力過重・機械式過給器・風洞実験といった難しい漢字が読めるだけでなく、意味まで理解したうえに、空気力学や機械工学や原子物理学まで調べるようになりました。
おまけに第二次大戦の兵器なら何でも数字が言えるようになりました。例えば、零戦二十一型の乾燥自重、装備重量、全幅、全長、翼面積、発動機、速力、上昇力、航続距離などを全てピッタリ言い当てられるようになりました。兵器の種類なんて、何千もあるわけですから、何万という数値を暗記したことになります。
(ただし今は全部忘れてしまったが)
もちろん怪獣オタクの道にも進みました。怪獣の身長体重は、全部ピタリと言い当てられましたし、ついでに恐竜についても詳しくなり、最終的には肉食動物まで詳しくなり、動物博士になったものです。そして虎とライオンが戦うと、どっちが強いか?などと空想しました。
さらにラジオオタクにもなりました。通信販売で部品を買い、自作ラジオを作って遊びました。金がなくなると、いろんな所からガラクタを集め、片っ端からハンダ付けにして、珍妙な機械を製作したりしました。ハンダ付けが面白くて面白くてしようがなかったんですね。さらに照度計を自作して、ありとあらゆる照度を調査したり、テスターでいろんなものの電流電圧を調べました。
そのうち高性能の短波放送用のラジオを買って貰うことに成功し、世界各国の日本語放送を受信し、電波情況を放送局に手紙に書いてベリカードを貰うようになりました。ベリカードとは、聴取者が放送局に受信報告書を送付した際に、その証明として放送局が発行するカードのことで、当時、それを集めるのがブームになっていました。
時代劇オタク・歴史オタクにもなりました。
テレビの大江戸捜査網の虜になり、隠密同心ごっこをやりました。
それがこうじて図書館で夢中で捕物帖を読みました。
それが最終的に岡本綺堂の半七捕物帖に向かうのですが、
今思えば恐ろしい小学生だったかもしれません。
なぜなら岡本綺堂の本は、大人でさえ難しい読み物だからです。
SFオタクにもなりました。小学5年生ともなりますと、ウルトラマンでは我慢できなくなります。そういう年頃になった頃、NHKの少年ドラマシリーズが始まり、タイムトラベラー(時をかける少女)に熱中しました。
当時、どの図書館にも、SF小説専門のハヤカワ文庫がありましたから、それをかたっぱしから読みました。おかげで、小学生のうちから慣性の法則とか、相対性理論を独学で学び始めるようになりました。
話が大きくずれましたが、私が何を言いたかったかと言いますと、こういった遊びの結果、学校の成績が上がったということなんですね。別に真面目に勉強したわけでないし、塾にかよったわけでもない。自慢じゃありませんが、父親が単身赴任してから一度だって勉強したことがありません。それがかえって良い結果を出すようになったのは皮肉です。
あと、どういうわけか団塊世代先生は、夏休みに宿題をだしませんでした。出さない理由も言いました。団塊世代先生は何やら難しい教育理論を述べたような気がするが覚えてません。
おかげで思いっきりオタク道に走ることができました。
その結果、小学5年生くらいで、かなり難しい事を調べるようになり、真面目に勉強しなくても成績が良くなったのです。だから私は、今でもオタク道に対して、否定的な感情をもっていません。むしろ肯定的な考えをもっています。
逆に小学生のうちから子供たちに勉強させることに否定的な考えをもっています。小学生にとって大切なことは勉強ではなく、好奇心であると。一番大切なことは、健全な好奇心を育てることであって、それさえ育っていれば、あとは放っておいても子供たちが勝手に勉強し出すもだと思っています。
私がユースホステル運動を行っている原点は、そういった私の過去が、私をつき動かしているからです。だからガラにもなく、リヒャルト・シルマンの伝記まで書いてしまった。
つづく。
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何してたかといえば、学研の「学習」や「科学」を読み耽ったり、学研の学習マンガを読む耽ったり、特に高学年になってからは、当時、学研が刊行を開始した「まんが日本の歴史」シリーズが出るのを心待ちにしていました。
歴史オタク女誕生の第一歩ですね。
あとは、空き地で、いろいろ勝手に物語を設定して(鳥使いの話とか、アップルズという野球チームの話とか)、1人で物語世界を演じて悦に入っていた、少女でしたね…。
演劇少女誕生の第一歩…だったのでしょうかね…?
今の私は、さっぱり立派な大人じゃないんですが、果たして娘は、どう育つかな?
小学生になったら、復習だけさせるようにしようっと。