馬庭念流剣術発祥の地(長野原町応桑小宿)
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念阿弥慈恩(ねんあみ じおん)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客であり、禅僧です。奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられ、父の敵討ちをめざして剣の修行を積み、10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったといわれています。さらに16歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かり、1368年、筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得しました。
念阿弥は還俗して相馬四郎 義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと再び禅門に入り、名を慈恩と改め、諸国を巡って剣法を教え、1408年、信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称しました。
さて、木曽義仲(鎌倉倒幕武将)四天王に樋口次郎兼光がいます。兼光の母は木曽義仲の乳母、巴御前は兼光の妹、という姻戚で、信州伊那郡樋口村に住んだことから樋口姓を名乗っりました。木曽義仲討死後、樋口兼光は捕らえられて京で斬首されますが、一族は樋口村で生き延びました。
兼光から11代の樋口太郎兼重は、伊那郡波合村に住み着いた念大和尚の高弟となり、念流の兵法を修めます。後に念流は家伝となり、兼光念流と称しています。兼重の子孫は念流を代々受け継いでいきますが、十三代高重が上野国吾妻郡小宿村(現長野原町応桑小宿)に住居を移します。これが、この地です。
つまり、ここ(長野原)は、真田とは別傾倒の武術が定着したわけで、長野原町は、嬬恋村の真田流古武道(あるいは忍術)とは、違うスタイルが定着しました。いわゆる馬庭念流の元祖の誕生です。ただし、真田軍団の進出によって、樋口氏は上州多胡郡馬庭村(現吉井町馬庭)に再転居。馬庭の念流なので馬庭年流といわれるようになりました。
馬庭念流は専守防衛の剣術で、腰を思いきり引いて、重心を後ろの足に置くと言う他の流儀には見られない防御には極めて有利な構えを取り、相手の攻撃を外す事に専念し、攻める時には接近してひたすら面のみを狙うという特殊なものです。示現流の逆ですね。そして念流は無意味に殺生する他流試合を嫌います。だから、かなり腕前を持ちながら、代々の当主は馬庭を出ることがなかったようです。
念流の門弟には武家の子弟もいたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していったものでした。その剣技はあくまで庶民の自衛の剣であり、立身出世や殺傷の道具とすることを戒めるものでした。
よーするに武士が戦場で戦うための剣ではないということです。自分から敵を求めるということもしません。あくまでも庶民が不意討ちされたときに身を守るための剣です。ただし、背水の陣で守るということではありません。相手を完璧に倒せるだけの力があってはじめて守りは可能になります。また、相手を平伏させ、相手を傷つけず自分も助かるということも可能になるわけです。
馬庭念流の特色は、武芸を仕官の為には使わず、爪を隠した鷹のような存在になったところです。しかし、著名な門人が多く、赤穂浪士中随一の剣客と言われた堀部安兵衛(中山安兵衛)などがいます。彼は高田の馬場で叔父の敵討ちで十八人切りをして、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望みました。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていましたが、浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上しました。これに感動した浅野内匠頭は、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えています。
しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されました。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかります。
ただし赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となりました。
そして元禄15年12月14日、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入り。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げました。そして松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。
あと滝沢馬琴や、新撰組の沼尻小文吾も馬庭念流の達人ですよ。
つづく。
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2010年04月20日
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