2010年04月22日

田代の愛妻の丘 マネージャーのミステリーツアー6

田代の愛妻の丘 マネージャーのミステリーツアー6

まず日本愛妻家協会のサイトをみてみましょう。

http://www.aisaika.org/mission/14kyabechu/aisainooka.html
http://blog.aisaika.org/?eid=761413

 農家の畑を借りて始まった小さな催しがキャベチューでした。男たちが真剣に愛を叫ぶ姿がだんだん評判になり、群馬県が叫びの丘に整備してくれました。そこを村の人たちが「愛妻の丘」と名付けました。いまではそこはドライブの名所です。村民が始めた催しが多くの人の心を動かして新名所になりました。小さな波が大きな波を作り出して現実になる。「愛妻の丘」はまるで奇跡のような出来事が生まれた場所です。

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愛妻の丘(英文名称:Aisai no Oka)
所在地 群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代字大横平2000の内
敷地面積 約2,766m2
開設年月 平成20年4月
位置 東経138度27分32.5秒 北緯36度30分19.2秒(国土地理院)
標高 1,257m
丘 階段数 37段
展望台面積 約136m2
駐車場面積 約500m2
説明板 大型1基:村名の由来、小型1基:テミル原則(英語版あり)
叫び台 名称 妻に愛を叫ぶ専用叫び台
開設年月 平成21年4月


というわけで、愛妻の丘にいってみました。

104-18-10.JPG

すごく景色がいいてところです。

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思わず、みんなで記念撮影。

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 愛妻の丘は、嬬恋村田代の伝説にもとずきます。日本愛妻家協会のホームーページにもあるように、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、世界で初めて愛妻家宣言をした人物として有名です。そこで日本武尊について紹介したいと思います。

 日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生しました。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。ところが、この日本武尊は気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていました。

 そんな日本武尊は羽曳野で一人の娘と出会いました。
 名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。
 やがて二人は結ばれました。

 しかし、日本武尊は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。父は、東国の12か国(伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)が従わないので平定するよう日本武尊に命じたのでした。

 日本武尊は東征に出発。
 相模の国に入る前に奥様の弟橘比売が合流。

 船に乗って三浦半島沖から房総半島に向かいましたが、船出した直後に嵐がきました。雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船なすすべもありませんでした。弟橘比売は「海神の祟り」だと言い、海の怒りを静めようと海に身投げしました。

 やがて海は静まり、日本武尊たちは上総(千葉県木更津)に渡ることができました。海岸で日本武尊はクシを見つけました。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げて、去りがたい思いでいっぱいになりました。木更津(きさらず)は、この時の日本武尊の「君さらず」からきています。

 この後、東国を平定し、日本武尊たちは帰途につきました。そして、関東地方を去るにあたって嬬恋村で
「あずまはや(わが妻や)・・・・・」
と3回も嘆き叫んだと言われております。

 その後、三重県伊吹山で、最期の戦いを行い、ボロボロになって歩くことさえできなくなります。それでも血まみれになりながら大和を目指して歩き続ける日本武尊でしたが、さすがに衰え、能煩野(のぼの)で、ついに力つきました。そして

「やまとは 国のまほろば たたなづく青垣  山ごもれる やまとし うるわし」

と歌いになられ、亡くなられました。


104-18-13.JPG


つづく。

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posted by マネージャー at 01:57| Comment(0) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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