茂田井間の宿の急な上り坂(石原坂)を登りきると茂田井の一里塚があります。一里塚について「中国で路の側に一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いでエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという」と書かれてあります。
一里塚は、大きな道路の側に1里毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)です。元々は中国起源のもので、塚の側に槐の木を植えたり標識を立てたりしていました。ただし、当時の中国での1里は約500メートルでした。
日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われています。室町時代の一休が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいます。
一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代。慶長9年2月4日、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出しました。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了しています。また、一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。
現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿です。
つづく。
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