高札場は幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設であり、江戸時代6万を越える全国の村々にありました。多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多かったのですが、茂田井宿では、2つありました。これは非常に珍しいことです。
たとえば神奈川県の東海道では、9つの宿場にそれぞれ1カ所ずつありました。いずれも江戸から京都に向かって街道の右側に設置されています。ところが、どういうわけか茂田井宿には2つあったわけです。
文書は、紙ではなく木に書かれました。内容は、親孝行・博奕の禁止・忠孝の奨励・精勤・賛沢の禁止など、町人や農民の生活の規範とするもの、キリシタン、鉄砲、徒党の禁止、新田開発の奨励などです。 基本的なものは正徳元年(1711)に出された親子兄弟札、毒薬札、キリシタン札、火付札、駄賃札などです。
文字の読めない人のため、村人に読み聞かせるのも名主など村役人の仕事でもありました。高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われました。余り頻繁にあったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持されました。
つづく。
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