大永元年(1521)、前山城主伴野貞祥によって創建された、佐久平を代表する曹洞宗の名刹。以来、歴代領主から庇護され天正15年(1587)には蘆田城主依田康真から銅100貫文を寄進、江戸時代に入った慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光より朱印15石を安堵、慶安2年(1649)には小諸城主仙石秀久よりてら領100貫文など寄進を受け末寺12ヶ寺を有する寺院として寺運も隆盛します。
現在も七堂伽藍を備える広大な境内で惣門は承応2年(1653)に建立された貞祥寺最古の建物で一間一戸、切妻、茅葺、薬医門形式、山門は寛文12年(1672)に建立されたたてもので三間一戸、入母屋、茅葺、棟梁小泉三右衛門・重右衛門、三重塔は江戸時代末期に建立され明治3年(1870)に小海町にあった神光寺から貞祥寺に移築されたもので共に長野県指定県宝に指定されています。
杉、松、イチョウの老木がうっそうと茂る深閑とした境内には、300年前に再建された本堂をはじめ、総門や山門など七堂伽藍が立ち並びます。県宝に指定されている三重塔は、明治3年(1870)に小海町松原湖の神光寺から移築された江戸時代末期の建造物。初層には地元出身の日本画家・柳沢文真による飛竜と草花16点の天井画がおさめられています。境内には、島崎藤村の旧宅があり、三重塔は県宝。
長野県佐久市前山1380-3
JR中込駅→車10分
上信越道佐久IC20分
駐車場 あり
TEL:0267-62-0325
貞祥寺境内には太平洋戦争の時の人間魚雷回天の記念碑ならびに1/3の魚雷の模型が展示されています。回天の設計者の一人仁科関夫は佐久市の出身で敵艦に体当たりを敢行しました。
碑文
昭和十九年 太平洋戦争年を重ねて苛烈となり 戦勢ようやく我に利あらざる時 憂国の至情に燃えて黒木博司少佐 仁科関夫少佐は第一特別基地隊に在りて 前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷を完成もって頽勢の挽回を計らんと「回天」と命名 徳山湾大津島に基地を定め 日夜一人一艦必殺の戦法 操縦訓練に励む 黒木少佐は訓練に殉じたるも同年十一月回天特別攻撃隊菊水隊の先陣に立ちし仁科少佐以下敵前進基地ウルシー パラオ コッスル水道 ホーランジア グアム アブラ港に また硫黄島 沖縄付近海域中西部太平洋上に 大津島 光 平生大神の各基地より出撃し敵艦に体当り攻撃を敢行せり戦遂に利あらず昭和二十年八月 兵を収むるまで戦没並びに殉職搭乗員の英霊百五十余柱 帰らざる潜水艦七隻 その乗員八百十余柱を数う 散華せし勇魂を迎慕し回天の偉業を後世に伝えんと 創始者仁科少佐の出身地佐久に永遠の世界平和を念じつつ 長野県出身者戦没並びに殉職搭乗員 仁科関夫少佐 北村十二郎少尉 中島健太郎大尉 宮澤一信中尉 の霊安からんことを祈念し 戦友相寄り「回天之碑」これを建つ
昭和五十一年六月六日 長野県回天会
つづく。
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ラベル:貞祥寺(ていしょうじ)