吾妻町大戸に、大運寺という寺があります。江戸時代の富豪・加部安左右衛門をはじめ加部家代々の墓がある寺です。山門には大きなシダレザクラがあり、春には美しい花を咲かせています。
大運寺は天正年間に大戸村寺原から現在地に移りました。
当時、上州の三大尽の一人と言われた富豪で大戸出身の加部安左衛門の寄進によって大運寺は荘厳な寺観となりました。
当時の本堂と庫裡は、平成2年2月に発生した火災によって焼失してしまいました。
現在の本堂は平成6年に再建されたものです。加部家の墓地が大運寺にあります。
群馬県吾妻郡東吾妻町大字大戸371
0279-69-2257
加部安左衛門
上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。
みんなから加部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。
初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。
天明三年(1783年)に浅間山が大噴火を起こして、鎌原村をはじめとして吾妻郡の村々は壊滅状態となり、避難民が溢れます。
8代目は財産を惜しまず、避難民の救済に当たります。
翌年の正月、その功績によって、幕府より帯刀を許されます。
天明6年の大洪水の時も、避難民たちを救っています。
11代目は江戸で生まれて、江戸で育ちますが、郷里に戻って、家業の建て直しを図ります。
11代目は国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時、最期に望んだのが、加部安が造った銘酒「牡丹」でした。
1829(文政12)年、吾妻郡大戸村の豪商の家に生まれた加部嘉重は、1859(安政6)年の横浜開港を契機に横浜弁天通へ大きな店舗を構えて、生糸・麻・呉服・茶・雑貨等を外国人へ売り込み、大きな利益を得ていました。
のち経営を使用人に任せたため、経営不振となり、1864(元治元)年に事業から撤退、横浜の店舗を閉めて郷里の大戸へ戻りました。
1894(明治27)年歿。商売は13代目加部安左衛門となった孝重が1874(明治7)年まで続けていました。
現在、加部安左衛門の生家跡の一部と墓(大運寺)が残されています。
つづく
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ラベル:大運寺を散策してみた