真田本城は、戦国期に活躍する真田一族発祥の地である真田の郷にあります。真田の城作りは、特徴があります。水源のある小山に、稜線ごとに、いくつもの要塞をきずくやりかたです。で、分不相応に大きいのです。
これは、真田軍団の戦法に原因があります。
真田軍団の戦法は、機動防御なんです。
つまり土地(城)に執着しない。
有利な位置で戦って、自分は怪我することなく相手に大傷ををおわせ、さっさと撤退する方法です。だから分不相応に大きく、数も多い。そのかわりに豪華な石垣や立派な館が無いのが特徴です。この本城も、そういうタイプの城で、ふだんは少数の人しかいないのが普通で、平時は麓にある真田氏館にみんな住んでいました。と書くと武田信玄のスタイルを思い出しますが、まさにそのとおり。これは武田信玄を真似したのではなく、武田信玄が真田を真似したのですね。
眼下が真田の平野。
この平野をはさんで、向こうの山にも城があります。
このへんは城だらけです。
城で平野をかこっている感じです。
この多くの城で機動防御を行うのが真田軍団の得意な戦法です。
ここで機動防御について解説しておきます。
機動防御とは、陣地の死守を行わない防御です。敵に攻めさせて撤退をし、ある程度出血させつつ退却していく防御方式です。第二次大戦中のドイツ軍の指揮官ロンメル将軍や、マインシュタイン将軍が得意とした戦法で、自分より強力な連合国軍を何度も破っています。
真田軍団が、こういった機動防御を得意とした理由は、上杉謙信の軍団と何度も戦ったためでしょう。無敵武田軍団も、上杉謙信の軍団と正面から戦ったら負けます。だから機動防御するしかなかったのですね。逆に上杉謙信の軍団は、何度も武田軍団を破りながらも結果として、かれら武田軍団(=真田軍団)の侵攻を止めることができなかった。
これは、越後勢が雪で動けないときに、さかんに侵略し、雪が溶けて上杉軍団が救援にやってきたときに機動防御する。そのようにしてジワジワと領土拡大を行ったのです。「人は城、人は石垣」という言葉は、機動防御の発想なんですね。
これを極限まですすめたのが織田信長。わざと攻めやすい平城を作って相手を誘い込み平地での決戦を行う。武田軍団が西進したときにも、適当に戦って撤退しようとした。まさ機動防御を行おうとしたのですが、徳川家康がウンとは言わなかった。で、徳川家康が三方原の戦いを行って敗退するわけです。
つづく
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