2010年09月14日

長谷寺(ちょうこくじ) シルマンウォーク

 長谷寺(ちょうこくじ)は、天文16年(1547)、真田幸隆が上州安中の長源寺から伝為晃運和尚を招き創建されました。場所は、山家神社から山に入ったところにあります。やはり山家神社一帯は、真田の本家のようですね。ここには、真田幸隆・真田昌幸の墓があります。


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 ここで、真田の系図について説明します。もともと真田氏は海野氏でした。海野氏の分家が、今の角間渓谷・角間温泉のあたりに土着したのが真田一族のご先祖様です。角間渓谷を西に行くと、山家神社で四阿山修験道の総本山です。東に行くと嬬恋村(角間山と湯の丸山)の鹿沢温泉です。

 で、角間温泉・角間渓谷に行ったことがある人は、わかると思いますが、すごく怪しいところです。まさに忍者と修験者の地というかんじなんです。いつか、ブログで紹介しますね。

 ちなみに真田氏は、もともと海野氏の分家なので、最初は海野を名乗っていました。ところが、武田信玄の父である、武田信虎によって天文10年(1541年)に滅ぼされてしまい、海野一族は嬬恋村の親戚のところに逃げます。その時に真田姓に変更し、真田幸隆となっているのです。この真田幸隆は、その後、父を追放した武田信玄の部下になり、信玄の部下として大活躍し、故郷を制圧して、その領土をもらいます。そして、長谷寺を創建して墓をつくるわけです。

 では、この真田幸隆が、武田軍団の中で、どれほどの活躍をしたかといいますと、おそらくナンバーワンの活躍だったようです。というのも、武田信玄が唯一、敵わなかった村上義清を滅ぼせたのは、真田幸隆の力が、あったからです。世間では、武田信玄といえば、上杉謙信をライバルに思う人が多いですが、武田信玄は上杉謙信に負けていません。互角の勝負を繰り返しています。

 ところが、その武田信玄が唯一、勝てなかった相手があります。村上義清です。村上義清こそは、最強軍団であり、武田信玄は何度も死にそうな目にあわされています。そして影武者が次々と犠牲になっていた。武田信玄の戦績は49勝2敗20分けとされていますが、このうちの2敗は、村上義清がつけたものです。しかも壊滅状態になるまでコテンパンにやられている。

 ところが、この村上義清を、アッという間にやっつけた男が真田幸隆です。真田幸隆は、戦いでは勝てないとみて謀略で村上勢の武将切り崩し、幸隆の謀略によって砥石城を奪いかえしました。そして最強軍団であった村上勢の武将たちが、真田の家臣となり、最強真田軍団ができてくるのです。


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石門の上部には六文銭。
このアーチは創建当時のもの。

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 長谷寺は寛保2年(1742)には土石流により土砂に埋まり、宝暦7年(1757)に火災、明治23年(1890)にも火災にあい、現在の本堂は昭和53年(1978)に再建されたものです。 場所は、上田市真田町長4646


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これが、真田幸隆・真田昌幸親子の墓です。
真田昌幸は、徳川軍を2回破った男です。
2回目は、関ヶ原の戦いの時で、3万8000の最強徳川軍を、
たった2000の兵で上田城で足止めした男です。


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つづく

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posted by マネージャー at 09:32| Comment(2) | 真田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
うわー。
この時のシルマンウォーク、私としては、かなり好みの題材でした…。
参加できず、残念…。

もっとも、健脚なツアー参加者の皆さんについていけたかどうかは、いささか自信がないですが…。
Posted by みわぼー at 2010年09月14日 21:58
真田軍団に御興味おありですか。
またの機会があると思います。
嬬恋村と真田軍団は、切っても切れない関係ですから。
Posted by マネージャー at 2010年09月15日 09:40
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