ここで、真田の系図について説明します。もともと真田氏は海野氏でした。海野氏の分家が、今の角間渓谷・角間温泉のあたりに土着したのが真田一族のご先祖様です。角間渓谷を西に行くと、山家神社で四阿山修験道の総本山です。東に行くと嬬恋村(角間山と湯の丸山)の鹿沢温泉です。
で、角間温泉・角間渓谷に行ったことがある人は、わかると思いますが、すごく怪しいところです。まさに忍者と修験者の地というかんじなんです。いつか、ブログで紹介しますね。
ちなみに真田氏は、もともと海野氏の分家なので、最初は海野を名乗っていました。ところが、武田信玄の父である、武田信虎によって天文10年(1541年)に滅ぼされてしまい、海野一族は嬬恋村の親戚のところに逃げます。その時に真田姓に変更し、真田幸隆となっているのです。この真田幸隆は、その後、父を追放した武田信玄の部下になり、信玄の部下として大活躍し、故郷を制圧して、その領土をもらいます。そして、長谷寺を創建して墓をつくるわけです。
では、この真田幸隆が、武田軍団の中で、どれほどの活躍をしたかといいますと、おそらくナンバーワンの活躍だったようです。というのも、武田信玄が唯一、敵わなかった村上義清を滅ぼせたのは、真田幸隆の力が、あったからです。世間では、武田信玄といえば、上杉謙信をライバルに思う人が多いですが、武田信玄は上杉謙信に負けていません。互角の勝負を繰り返しています。
ところが、その武田信玄が唯一、勝てなかった相手があります。村上義清です。村上義清こそは、最強軍団であり、武田信玄は何度も死にそうな目にあわされています。そして影武者が次々と犠牲になっていた。武田信玄の戦績は49勝2敗20分けとされていますが、このうちの2敗は、村上義清がつけたものです。しかも壊滅状態になるまでコテンパンにやられている。
ところが、この村上義清を、アッという間にやっつけた男が真田幸隆です。真田幸隆は、戦いでは勝てないとみて謀略で村上勢の武将切り崩し、幸隆の謀略によって砥石城を奪いかえしました。そして最強軍団であった村上勢の武将たちが、真田の家臣となり、最強真田軍団ができてくるのです。
石門の上部には六文銭。
このアーチは創建当時のもの。
長谷寺は寛保2年(1742)には土石流により土砂に埋まり、宝暦7年(1757)に火災、明治23年(1890)にも火災にあい、現在の本堂は昭和53年(1978)に再建されたものです。 場所は、上田市真田町長4646
これが、真田幸隆・真田昌幸親子の墓です。
真田昌幸は、徳川軍を2回破った男です。
2回目は、関ヶ原の戦いの時で、3万8000の最強徳川軍を、
たった2000の兵で上田城で足止めした男です。
つづく
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ラベル:長谷寺(ちょうこくじ)
この時のシルマンウォーク、私としては、かなり好みの題材でした…。
参加できず、残念…。
もっとも、健脚なツアー参加者の皆さんについていけたかどうかは、いささか自信がないですが…。
またの機会があると思います。
嬬恋村と真田軍団は、切っても切れない関係ですから。