真田幸隆の長男、真田信綱の墓があります。信綱の首は、家臣の白河兄弟の手によって真田に持ち帰られ、信綱寺に葬られました。今回は、墓には行ってませんが、この境内の裏山に墓はあります。
真田信綱は、武田信玄・武田勝頼の二代に仕え、『甲陽軍鑑』によれば永禄四年(一五六一年)の第四次川中島の戦いでは父・幸隆とともに妻女山攻撃の別働隊に加わっていたといいます。永禄六年(一五六三年)の岩櫃城攻略の前後から、幸隆は上野国吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われます。
戦場では父・幸隆や弟の真田昌輝らとともに行動しており、幸隆とともに信濃国や上野国を転戦し、永禄十一年(一五六八年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄十二年(一五六九年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げています。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍しています。
どうして先鋒なのか?
最強軍団であったからという理由もありですが、
謀略と情報収集能力を買われてのことだと思います。
天正二年(一五七四年)に幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継ぎますが、一年後の天正三年五月二十一日(一五七五年七月九日)の長篠の戦いで弟の昌輝とともに戦死。享年三十九。信綱を討ったのは徳川方の渡辺政綱だといいますが、信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣の白河兄弟が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は、上田市の信綱寺に収蔵されています。
なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根があります。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地です。
あと、もう一つ残念なことがあります。
この寺には、暑さに負けて車で行ってしまったことです。
本来なら真田市街から古城跡の黒門を越えて寺に行った方が良かったのですね。
そうすると、この信綱寺が単なる寺でないことが分かるからです。
つまり城塞に建てられた寺であることがよくわかります。
イザとなったら城に早変わりするようになっているのです。
機動防御の拠点に使えるのです。
そして、黒門から寺に向かう参道に、ものすごい数のアジサイがあります。
6月から7月にかけて見事なアジサイが見られます。
そして次々と色を変えるアジサイこそは、真田軍団の本質をあらわしています。
長野県上田市真田町長8100
TEL 0268-72-2204(上田市真田地域自治センター 産業観光課)
料金 境内自由
つづく
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