2010年12月11日

馬喰一代 中山正男の故郷4

馬喰一代 中山正男の故郷4

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「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」
「違います」

 佐藤敏秋さんは言いました。


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「3万円の馬を買って、4万円で売る。そういう商売で、馬喰が生きていたわけではないのです」
「え?」
「それでは儲かりませんから、3万円の馬を10万円にも、20万円にもするには、別の知恵が必要でした」
「・・・・」
「3万円の馬が、10万円にならないとすると、馬喰たちは農家に『この馬は病気だ』と言って返品するわけです。そして、しばらくして馬主に、バカな飼い主を見つけたから、俺が3万円で売ってやるから、売れたら1万円よこせと、話しをもちかけます」
「はあ」
「で、馬の飼い主には、バカな売り主がいるから、10万の馬を5万円で買ってきてやるから、俺に1万円よこせと言う。そして、売り主と買い主の両方を騙して、両方から金をせしめるわけです。そのうえ裏金ももらうことにする」
「なるほどねえ」
「しかも、馬喰たちは、売買後もトラブルがあると両者の間に入って、示談役として両者から金をせしめたりもしました。そのうえ売り主と買い主から情報を仕入れて、ハッカの仲買人に情報を売ったりしました。なにせ農家と密接に繋がっているから、場合によってはハッカ商の手下になることもありえました」
「へえー」

 中山正男の『馬喰一代』には、馬喰という職業は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと何度も書いてありますが、佐藤敏秋さんのお話によって、その理由が分かった気がしました。やりくちがヤクザとたいして変わらないからです。


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 しかしよく考えてみれば、このようなことは開拓時代の北海道では、あたりまえであったのです。北海道の名付け親である松浦武四郎の記録をよめば、開拓時代の北海道では、商人たちが、どれほどあくどいことをやってきていたか、いやというほど書いてありますから、北海道史をかじった者なら知らない人はいません。だから今でも北海道は、農協の力が強いのですね。

 そういう環境の中で、中山正男の父である米市は、自らハッパ馬喰(インチキ馬喰)を禁じ手にしました。理由は、息子の正男のためです。


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 ここで、中山正男の生い立ちを書いてみます。
 映画『馬喰一代』には、それにふれてませんし、
 直木賞候補となった小説の方も多少の脚色があって正確ではありませんから、
 補則の意味で書いておきます。


 中山正男が生まれたのは、北見の留辺蘂ではなく、佐呂間村でした。父の米市は、馬喰の仕事をしながらサロマ湖のほとりで猟師の手伝いをしていました。場所は浜佐呂間のあたりです。ここで中山正男は、父の米市、母の「はるの」の子として生まれます。はるのは、平凡な農家の娘で右を向けと言えば、三年でもだまって向いているというような大人しく柔順な人でした。その両親のもとで生まれたのが中山正男です。明治44年1月26日のことです。



写真は、浜佐呂間の町
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写真は、サロマ湖YH
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 米市は、動物のように正男を可愛がりました。毎日、息子の寸法をはかり、足の太さや胸囲まで暗記したと言います。そして可愛い寝顔を何時までも覗いていた米市は、正男の顔に墨をぬってひげをはやしたり、眉を太く書いたり、眼鏡を書いたりして遊んだといいます。その親バカぶりは、正男が、怪我をして血を吹いて倒れていた時には、馬具をかける間ももどかしく、裸馬のまま、網走の病院まで三十キロも走った事もありました。


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 ところが、その米市が浮気をしました。

 馬喰たちは、よく料亭に通いました。当時の料亭には、売春婦たちがいました。米市は料亭の女を買うようになりますと、売春婦たちの寝技にすっかり参ってしまいました。そうなるとマグロの女房には、ものたりなくなり、ついには前妻を暴力でもって雪の降る中に追い出してしまいました。生母は、
「めかけでも良いですから、ここに置いてください」
と泣きながら懇願しましたが、米市は、生母を追い出して売春婦の「その」を二番目の妻に迎えました。酷い話です。

 しかし、けなげにも生母は、夜に米市の家に忍び込み、こっそり正男に乳を飲ませました。そして、それが米市にバレて半殺しにされました。生母は泣く泣く正男と別れざるをえませんでした。しかし米市は「その」に逃げられてしまいます。このへんの描写は、映画にも小説にも書かれてありません。生母は病気で死んだことになっています。



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 ここから、クレイマークレイマーばりの、父親と息子の二人暮らしになるのですが、子煩悩の米市は、息子のために女学校出のインテリの売春婦を身請けして妻にします。三番目の妻である「ゆき」です。プライドの高い米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。

 インテリの「ゆき」は正男を可愛がりました。そして米市の見込んだとおり、三番目の母は、正男の教育のために精魂をかたむけました。そのせいか中山正男の成績はあがりました。さらに「ゆき」は、米市にも手紙で注文をだしました。

「子供はその親を手本とします。とくに悪い事を真似たがるものです。お願いですから、正男のいるわが家で宴会を開いたり、賭博をするのはやめて下さい」

 短気な米市も、正男の教育問題に関しては、三番目の妻の言いつけを守りました。米市は、しだいに父親らしくなり、家庭的になっていきました。そして正男は、成績がトップになり、総代まで選ばれました。しかし、子供というものは残酷でした。
「やーい、お前の母ちゃん淫売(売春婦)!」
とはやしたてるクラスメイトたち、それが大合唱となる事もありました。正男は
「違うわい」
と涙ながらに拳骨で反撃し大乱闘となりました。

 米市は、そんな正男と母親のために、引っ越しを決意。
 サロマ湖畔から、留辺蘂へ移ったのです。
 大正十年の秋でした。
 その歳は、のちの盟友・横山祐吉が、東京音楽学校(芸大)に入学した歳です。
 

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つづく

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posted by マネージャー at 23:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本ユースホステル運動史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
馬喰で蛇蝎のように嫌われていても、
子供には愛情を注ぐ父親だったのですね。

しかし、最初の妻を追い出すエピソードには絶句してしまいました。
妻としては、たまらないですね。。

それぞれの妻の人生もとても気になりました。
三番目の妻も女学校を出て売春婦って、何があったんだろうかと
思います。

正男の心に何がともっていくのか、興味があります。
Posted by ささらー at 2010年12月14日 10:58
>三番目の妻も女学校を出て売春婦って、何があったんだろうかと

4番目の妻も売春婦でしたね。

これ、私も不思議だったんです。
しかし、留辺蘂で取材して、やっと分かりました。
やはり現地に行かないと駄目ですね。
文献だけでは絶対に分からなかった。
Posted by マネージャー at 2010年12月15日 00:39
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