馬喰一代によれば、中山正男は、サロマ湖湖畔のカワグチというところに生まれたといいます。ところが、カワグチという地名は地図では確認できません。ただ、馬喰一代の記述により、浜佐呂間あたりだと推測することができます。これが浜佐呂間の町。そしてサロマ湖の近くです。当時は、電気も店もなかったと言います。
米市は、このあたりで漁師の手伝いをしながら馬喰をやっていたと言います。兼業しているところをみると、この頃は、まだ馬喰という職業は、羽振りのよい職業ではなかったようです。ちなみに米市のライバルである尾崎天風も、馬喰から身をおこしてサロマ湖あたりで木材の事業をやって大儲けしていました。
この尾崎天風は、偶然にも田澤義鋪の故郷・佐賀県鹿島の生まれの人です。北見市史編さんニュース64号および馬喰一代によれば、明治31年にサロマ湖に移住してきて、常呂(サロマ湖)と野付牛(北見)を結ぶノッケ街道の駅逓馬橇の御者をしていました。彼は山に火をつけてその山の焼木や破損木の払下げを願い、もし許可になったら、この時とばかりに近くの山の盗伐をやって、許可石数の何倍も伐りまくる。それを坑木や製材にしてボロい儲けをしたと言われています。
そして大正の始め頃には佐呂間の役場の隣で料理屋を経営し、大正3年の佐呂間村分村独立のときにく役人を接待し、役場も当初村民が陳情した場所と違う「佐呂間市街、天風の料理屋の道路向」に決定し、料理店の一部を月8円で借上げて改装し仮庁舎として開設しました。そして、大正4年には釧路新聞支社の肩書きも得たと言います。しかし、馬喰一代にあるように本人は、無学にちかく文字を覚えたのは、兵役後、二十歳の中山正男すぎてからだと言われています。
中山正男の生家から4キロほど西に行った幌岩に生母「はるの」の実家がありました。
これが幌岩の風景です。
また、幌岩には、幌岩山があり、展望台があります。
眼下にサロマ湖が見渡せます。
この幌岩から、吹雪の中を4qほど歩いて、中山正男に乳を飲ませに通ったといいます。
これが武富士。
中山正男の家から10qも離れています。学校で使う文房具は、ここまで歩いて行かないと買えませんでした。父の米市は、教育熱心で、中山正男が日記を書き損じたりすると、容赦なく破り捨てられ、武富士まで買いに行けと怒鳴られました。当時、7歳の中山正男は、夜中に10qの道を歩いてノートを買いに行かされました。もちろん熊が出て危険ですから、父の米市も提灯をもって、こっそり後をつけていったと言います。
そんな教育熱心な米市は、中山正男の教育のために女学校出の母親(後妻)をさがしますが、無学な馬喰に女学校出のインテリ嫁がくるはずもありません。しかし、留辺蘂の西にある大温泉地帯である「温根湯」に身をもち崩して売春で生活している「ゆき」という女性がいると聞いた米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。
この「ゆき」が3番目の母親になるわけですが、
「ゆき」が働いていた「温根湯」には、有名なキタキツネ牧場があります。
留辺蘂は、あちこちにキタキツネ牧場がありますが、
温根湯のキタキツネ牧場が一番有名です。
中には、おいなりさんがあって、鳥居の中に本物のキツネが寝ています。
これは、樹に登ってイチイの実を食べているところ。
話しは変わりますが、この温根湯は、大温泉地帯でした。
そして、多くの温泉旅館がたちならびました。
そして、花街が形成されました。
そこでは、キツネの化かし合いがあったことでしょう。
留辺蘂にも旅館が解説されました。
留辺蘂にもポン温泉がありました。
アイヌ語で、オンネとは、大きいの意味。
アイヌ語で、ポンとは、小さいの意味。
つまり留辺蘂にある大きい温泉が、温根湯温泉。
つまり留辺蘂にある小さい温泉が、ポン温泉です。
で、留辺蘂には、この2つの温泉が開発され、旅館がたくさんでき、
売春婦たちも大勢あつまってきました。
温泉街に御客さんが集まるということは、羽振りのよかった人がいたということです。
つまり、北見にはもハッカで儲けた人がおり、
それに寄生するかたちで、馬喰(家畜販売)で儲けた人がおり、
彼らが遊びに来るところが、ポン湯のあった留辺蘂であり、
温根湯温泉であったわけです。
その温根湯温泉に、新潟から駆け落ちしてきて、亭主に死なれた女性がいました。
その女性が、中山正男の3番目の母親になります。
つづく
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ラベル:馬喰一代 中山正男の故郷5
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それにしても、米市の人生の激しさは半端ではないですね。
欲望のままに生きていて、だからこそなのか、
子供を思う気持ちも強くて、
往復で14キロもある文房具屋まで行かせても、後からこっそり
つけるっていうのがまた、じーんとしました。
はなしは変わりますが、馬喰一代は、
あきらかに後世の作家に影響を与えていますね。
例えば『青春の門』なんか。
逆に馬喰一代のモデルになるような小説が見あたらない。
かろうじて『富島松五郎伝(無法松の一生)』が似ていますが、
カラーが大きく違いすぎる。
だから当時は、中山正男の書く小説は、
中山文学と言って、一つのジャンルになっていました。