どうも昔から私は、老人に好かれる傾向がありました。
で、それに思い当たることが無くも無かった。
私は、子供の頃、親元を離れ佐渡島の僻地で年寄りに育てられていた。
それも、たったの3年間。
0歳から3歳の間だけだった。
3歳になった時、その僻地を去ったわけですが、
僻地で御世話になった年寄りたちとは、
その後も十数年の交流がありました。
みんな私の顔を見に遊びに来たからです。
そして、別れ際に大粒の涙を流しながら、こう言うのです。
「お父さんと、お母さんの言うことを聞いて、行儀良くするんだよ。お父さんたちに心配かけちゃだめだよ。みんなに、ありがとうの気持ちを忘れてはだめだよ」
幼少の頃、私は父親・祖母の顔を知りませんでした。
母親と一緒に佐渡島の北片辺というところに住んでいたからです
母親は、小学校の教師で、当時は僻地だった北片辺小学校で働いており、私はベビーシッターに育てられていたわけです。ベビーシッターと言っても村の年寄り連中のことです。北片辺の老人たちに預けられていたんですね。昔の日本には、こういうベビーシッター制度がどこにでもあったんですね。でないと、子供を置いて、山の畑や、海の漁には出られなかった。
で、私は、北片辺の老人たちにいたく可愛がられたわけです。たった3年だけれど可愛がられた。そして、その後も十数年の交流が続いたんです。連休なんかになると、北片辺から老人たちが軽トラに乗ってやってきて、私を拉致するように北片辺に連れて行った。そして北片辺で一緒に遊んだのです。ですから私の老人好きは、幼児の頃に原点があった。
ところが3歳になると状況が変わってきた。
弟が生まれたのです。
母と0歳の弟は、北片辺に行ってしまった。
母とは、離ればなれになってしまった。
私は、実家で、父と祖母と一緒に暮らすことになった。今まで見たことも無かった父・祖母と暮らすことになった。ところが、私は、この父・祖母と相性が良くなかったのです。あまり可愛がられた記憶が無い。殴られた記憶しか無い。父も祖母も厳格なタイプで、幼少の頃の私は、なつかなかったようです。
私が生まれつきの難聴だったことも、親子関係を悪化させたようです。父親の言語を理解できないために、父親を激昂させてしまい、よく殴られたり、2階の物置に閉じ込められたりしたしました。で、どうなったかと言いますと、近所の老人たちと毎日あそぶようになった。私の両親や祖母は、私と遊んでくれる近所の老人たちのことを
「淋しい人たち」
と思っていたようですが、それは逆でした。淋しかったのは私の方で、私から老人たちに近づいていったんですね。そんなこととは知らない私の両親や祖母は、
「どうも近所には子供好きの老人が多いなあ」
と勘違いしていたようです。
それにしても良い時代でした。4歳の幼児が、(つまり私のことですが)、近所の庭先で仕事している老人をボーッと見ていると、こっちへ来なさいと手招きしてくれて、いろいろ話し相手になったり、御菓子をくれたり、自宅の飼犬や飼猫を紹介してくれるのですから、今では考えられないことです。こうして私は、いろんな老人たちと知り合いになっていった。
そして、しばらくたつと仲良くなった老人たちが私に「自分の人生」を語り始めました。と言っても4歳の私に本当の意味が分かるわけがない。戦争の事とか、騙されたこととか、駆け落ちしたこととか、息子が家出したこととか、4歳の幼児に意味が分かるわけがないんです。しかし、彼らは、同じ事を繰り返して何回も何回も言うんですね。それは厳密に言うと「ひとりごと」だったのかもしれません。しかし「ひとりごと」を何回も言うものだから、ボイスレコーダーのように4歳の幼児の脳みそに記憶されてしまった。
今でもハッキリ思い出せる。恐ろしい話や楽しい話しでいっぱいだった。幼児の頃の私は、ものすごい無口だったから老人たちは、ついつい「ひとりごと」を言ってしまったのかもしれない。これは後日わかったことですが、老人の中には元731部隊の将校もいたけれど、彼も私に「ひとりごと」を言ってました。
長い前置きになりましたが、ここからが本題です。
私が10歳を越えた頃には、誰も私に「ひとりごと」を言わなくなった。私に知恵がついてきたら、みんな黙ってしまったんです。質問しても答えてくれない。例外的に答えてくれた人はいたけれど、7割の人は、とぼける。中には、本当にボケた人もいたかも知れないけれど、大半はボケたふりをしたんですね。ある時期からは、老人たちは、肝心なところで無口になってしまった。
1970年(昭和45年)頃のことです。
70年安保があった時代。
この頃を境に、世の中が変わっていたんですね。
そして、1970年(昭和45年)頃に、私は母親と上京し、
東大病院で難聴の診察をうけているんです。
その時に、安保闘争のあった東大安田講堂を見学しています。
私が小学2年生の時です。
私は、この東大の大学病院の耳鼻科で、ものすごい衝撃を受けることになります。
つづく
↓ブログの更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング
ラベル:老人たちの話し 1
【関連する記事】
- 高所作業の詩 その1
- 明日から高所作業だ
- 最強の洗剤・リンレイの『ウルトラオレンジクリーナー』
- オープン21周年の記念品
- 渡部昇一物語【2】 マーフィーの法則
- 渡部昇一物語【1】 知的生活の方法
- 晴耕雨読
- ストーブにヤカンを見直してみた!
- ユースホステルの今後
- ユースホステルの会員は激減するが、その旅行スタイルは絶賛拡大中な件
- 寝る子は育つ その3
- 寝る子は育つ? その2
- 寝る子は育つ? その1
- 吾妻鉱山 最後に・・・
- 吾妻鉱山の人たちが、佐渡鉱山(金山)を見学した結果・・・・
- 吾妻鉱山の医療事情
- 吾妻鉱山 嬬恋村の『軍艦島』
- 吾妻鉱山 修学旅行が、日本橋三越だった理由
- 吾妻鉱山の謎
- 『ブラックマーケティング』と『学力と社会力を伸ばす脳教育』
保育園のドアひとつ隔てた向こうはデイサービスがあり、一緒に遊んだり、誕生会にスピーチしてくださったり。表情の固い方も子どもと触れ合うとニッコリ。
7歳までは神のうち(意味合いは複雑ですが)と言われますし。
子供の頃、年寄りが好きだったんです。
でも、この年寄り好きは、
今でも潜在意識の中で眠っているかもしれません。
おじいさんとおばあさんとの触れ合いもそこにいつも入っていて
あったかくなります。
いろんな事情があっていろんな体験をするのですね。
人が一人いれば、薄っぺらなことなんてないのではと思います。
みんな何にもない人なんていませんね。。。いろんなことが
何層にもなってるんだなって思いました。
新日本紀行の音楽は凝ってますよね。いつ聞いても。
>新日本紀行の音楽は凝ってますよね。いつ聞いても。
やはり富田さんは天才ですね。
この音楽くらい日本人の魂を震わす音楽はありません。