2011年05月28日

老人たちの話し 1

老人たちの話し 1

 どうも昔から私は、老人に好かれる傾向がありました。
 で、それに思い当たることが無くも無かった。

 私は、子供の頃、親元を離れ佐渡島の僻地で年寄りに育てられていた。
 それも、たったの3年間。
 0歳から3歳の間だけだった。
 3歳になった時、その僻地を去ったわけですが、
 僻地で御世話になった年寄りたちとは、
 その後も十数年の交流がありました。
 みんな私の顔を見に遊びに来たからです。
 そして、別れ際に大粒の涙を流しながら、こう言うのです。

「お父さんと、お母さんの言うことを聞いて、行儀良くするんだよ。お父さんたちに心配かけちゃだめだよ。みんなに、ありがとうの気持ちを忘れてはだめだよ」





 幼少の頃、私は父親・祖母の顔を知りませんでした。
 母親と一緒に佐渡島の北片辺というところに住んでいたからです

 母親は、小学校の教師で、当時は僻地だった北片辺小学校で働いており、私はベビーシッターに育てられていたわけです。ベビーシッターと言っても村の年寄り連中のことです。北片辺の老人たちに預けられていたんですね。昔の日本には、こういうベビーシッター制度がどこにでもあったんですね。でないと、子供を置いて、山の畑や、海の漁には出られなかった。

 で、私は、北片辺の老人たちにいたく可愛がられたわけです。たった3年だけれど可愛がられた。そして、その後も十数年の交流が続いたんです。連休なんかになると、北片辺から老人たちが軽トラに乗ってやってきて、私を拉致するように北片辺に連れて行った。そして北片辺で一緒に遊んだのです。ですから私の老人好きは、幼児の頃に原点があった。





 ところが3歳になると状況が変わってきた。
 弟が生まれたのです。
 母と0歳の弟は、北片辺に行ってしまった。
 母とは、離ればなれになってしまった。

 私は、実家で、父と祖母と一緒に暮らすことになった。今まで見たことも無かった父・祖母と暮らすことになった。ところが、私は、この父・祖母と相性が良くなかったのです。あまり可愛がられた記憶が無い。殴られた記憶しか無い。父も祖母も厳格なタイプで、幼少の頃の私は、なつかなかったようです。

 私が生まれつきの難聴だったことも、親子関係を悪化させたようです。父親の言語を理解できないために、父親を激昂させてしまい、よく殴られたり、2階の物置に閉じ込められたりしたしました。で、どうなったかと言いますと、近所の老人たちと毎日あそぶようになった。私の両親や祖母は、私と遊んでくれる近所の老人たちのことを
「淋しい人たち」
と思っていたようですが、それは逆でした。淋しかったのは私の方で、私から老人たちに近づいていったんですね。そんなこととは知らない私の両親や祖母は、
「どうも近所には子供好きの老人が多いなあ」
と勘違いしていたようです。

 それにしても良い時代でした。4歳の幼児が、(つまり私のことですが)、近所の庭先で仕事している老人をボーッと見ていると、こっちへ来なさいと手招きしてくれて、いろいろ話し相手になったり、御菓子をくれたり、自宅の飼犬や飼猫を紹介してくれるのですから、今では考えられないことです。こうして私は、いろんな老人たちと知り合いになっていった。


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 そして、しばらくたつと仲良くなった老人たちが私に「自分の人生」を語り始めました。と言っても4歳の私に本当の意味が分かるわけがない。戦争の事とか、騙されたこととか、駆け落ちしたこととか、息子が家出したこととか、4歳の幼児に意味が分かるわけがないんです。しかし、彼らは、同じ事を繰り返して何回も何回も言うんですね。それは厳密に言うと「ひとりごと」だったのかもしれません。しかし「ひとりごと」を何回も言うものだから、ボイスレコーダーのように4歳の幼児の脳みそに記憶されてしまった。

 今でもハッキリ思い出せる。恐ろしい話や楽しい話しでいっぱいだった。幼児の頃の私は、ものすごい無口だったから老人たちは、ついつい「ひとりごと」を言ってしまったのかもしれない。これは後日わかったことですが、老人の中には元731部隊の将校もいたけれど、彼も私に「ひとりごと」を言ってました。

 長い前置きになりましたが、ここからが本題です。
 
 私が10歳を越えた頃には、誰も私に「ひとりごと」を言わなくなった。私に知恵がついてきたら、みんな黙ってしまったんです。質問しても答えてくれない。例外的に答えてくれた人はいたけれど、7割の人は、とぼける。中には、本当にボケた人もいたかも知れないけれど、大半はボケたふりをしたんですね。ある時期からは、老人たちは、肝心なところで無口になってしまった。

 1970年(昭和45年)頃のことです。
 70年安保があった時代。
 この頃を境に、世の中が変わっていたんですね。

 そして、1970年(昭和45年)頃に、私は母親と上京し、
 東大病院で難聴の診察をうけているんです。
 その時に、安保闘争のあった東大安田講堂を見学しています。
 私が小学2年生の時です。
 私は、この東大の大学病院の耳鼻科で、ものすごい衝撃を受けることになります。


つづく

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posted by マネージャー at 01:02| Comment(4) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
幼児期にお年寄りと交流があるのは、お互いにすごく良いことだなあと自分の子を見ていて思います。

保育園のドアひとつ隔てた向こうはデイサービスがあり、一緒に遊んだり、誕生会にスピーチしてくださったり。表情の固い方も子どもと触れ合うとニッコリ。

7歳までは神のうち(意味合いは複雑ですが)と言われますし。
Posted by あんみつ at 2011年05月28日 20:39
良くも悪くも、私は老人に可愛がられましたから、
子供の頃、年寄りが好きだったんです。
でも、この年寄り好きは、
今でも潜在意識の中で眠っているかもしれません。
Posted by マネージャー at 2011年05月29日 00:23
マネージャーさんの昔話が大好きです。
おじいさんとおばあさんとの触れ合いもそこにいつも入っていて
あったかくなります。

いろんな事情があっていろんな体験をするのですね。
人が一人いれば、薄っぺらなことなんてないのではと思います。
みんな何にもない人なんていませんね。。。いろんなことが
何層にもなってるんだなって思いました。

新日本紀行の音楽は凝ってますよね。いつ聞いても。
Posted by ささらー at 2011年05月30日 12:06
ささらーさん

>新日本紀行の音楽は凝ってますよね。いつ聞いても。

やはり富田さんは天才ですね。
この音楽くらい日本人の魂を震わす音楽はありません。
Posted by マネージャー at 2011年05月30日 23:54
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