なにをかくそう私も松浦武四郎には、少しばかり詳しいのです。
で、いろいろ会話がはずんだわけですが、途中から
『はあ?』
という場面にでくわしてしまった。
たとえば、こんな会話。
「松浦武四郎は、日本最初の人権家ですよね」
「はあ?」
「虐げられたアイヌを守ろうとした彼こそは、日本最初の人権家だと思うんです」
「・・・・・・」
若い頃なら、ここで社会契約説と論語の違いを説明し、西洋と日本の社会背景を説明し、松浦武四郎が人権家などという妄言を訂正するのですが、今の私には、そういう気力はありません。適当に話題をかえて、別の話題でもりあがったわけですが、また、こんな会話に。
「松浦武四郎が海防を唱えたのは方便ですよね」
「はあ?」
「そうとなえることによって探検がしやすかった。だから方便として海防をとなえて北海道を回ったんだと思うんです」
「・・・・・・」
めんどくさがり屋の私は、ここで会話を打ち切ってしまいました。
もちろん松浦武四郎が海防をとなえたのは方便ではありません。
松浦武四郎は、本気で海防を考えていた。
そもそも彼は「探検家」とよばれるより「海防家」と呼ばれたがっていた。
幕末の志士たちにとって、海防は、急務だったからです。
では、なぜ『急務』だったのか?
これを知らないからトンチンカンな歴史解釈がまかりとおるのです。
江戸時代の人間にとっての常識が、
今の人には、分からないから
トンチンカンな歴史解釈になってしまう。
なぜ、海防が急務だったのか?
理由は簡単。
江戸時代の日本経済は、
世界で最も完成された流通システムをもっていたからです。
具体的に言うと、江戸の人口100万をささえる食料の流通システムは、
水路によってなされていた。
時代劇のテレビドラマをみると、必ず水路があって舟が繋留してますね?
あれです。
あれが江戸の町に縦横無尽にめぐらされてて、
その水運で大量の消費財(農産物など)が輸送されていたんです。
そのために、江戸は、世界最大の人口100万人を養えることができたんですよ。
これが同時代朝鮮の場合、京城(漢城)の人口は、たったの15万くらいです。
で、ペリーがやってきた時に、幕府が徹底抗戦しなかった理由は、
風に関係なく動く蒸気船に江戸湾を封鎖されてしまうからです。
そうなると船舶による消費財・つまり米が入ってこなくなるので、江戸百万が餓死する。
これは江戸時代の人間の常識だったわけです。
江戸のライフラインは、海にあったんです。陸では無い。
一方、黒船は、朝鮮にも行ってるわけです。
で、朝鮮はどうしたかと言いますと、徹底抗戦して黒船を撃退してしまった。
朝鮮には、日本ほど流通が発達してなかったために、
黒船で海上封鎖されても痛くもかゆくもない。
しかし、日本では違ったわけです。
陸送では、間に合わない。
江戸は餓死してしまう。
かといって海戦で勝てる自信は無い。
なぜならば、倭寇の時代から朝鮮出兵まで海戦で勝ったためしがないからです。
だから、当時の日本人は青ざめたんです。
これは、明治時代に出版された『大日本時代史』あたりに、ふつーに書かれてある。
少なくとも明治人の歴史家にとっては、常識に部類することだったんです。
しかし、大正時代に入って、道路が整備され、鉄道ができてくると、
江戸の流通をささえていた水運のことがわかりにくくなり、
志士たちが、なぜ幕末にあれほど『海防』をさけんでいたのか分からなくなってくる。
おまけに学校で教える歴史教科書にも載ってない。
これは意図的に載せてないんだろうけど、
載せなければ、どうして幕府がペリーに屈したかわからないし、
どうして、その1年後に国産の蒸気船を生産するまでになったかもわからないでしょう。
もういい加減、歴史に関するタブーは、なくしてほしい。
でないと、おかしな事を言い出す人がでてきて困ってしまう。
つづく
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猛省しきりです。
でも、江戸時代の物流が、水運で成り立っていたことは、少し江戸時代に立ち入って知っていくと分かる話ではありますね。
しかし、そこと、幕末日本の海防の急務を結び付けられていなかったことに、猛省であります。
陸送重視になっていったのは、何でなんですかね〜?
日本なんて、山道多いから、本来向いてないでしょうに…。