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的岩とは、万里の長城のような壁です。発達した柱状節理が、その壁を作っています。
的岩伝説
的岩を発見した源頼朝は、屈な的岩であるというので武を練る心から弓矢の力を試すことにした。狩場に集まった1万人の中から弓矢達者100人を選ばせ、的岩に10個の的を作らせ、各々その技量を揮わせた。
しかし、どうしたのか誰も的を射抜くものがない。そればかりか、矢は的に届かないうちに落ちてしまう。大将頼朝は頗る不機嫌であった。そこへ1人の勢子が現れて、自分なら握り飯で、的を射抜いてみせると広言を吐いた。頼朝はその勢子に向かい、
「早速言う如くせよ。若し的を抜くことができたら恩賞を取らせるであろう」
といった。勢子は、背負袋から握り飯を取り出して右手にそれをつかみ、心の中で何か呪文を唱えてから身構え、的に向かって勢い良く投げつけた。
握り飯は的に当たっただけでなく、その余る勢いに厚い岩を貫いて、岩の破片が火花をあげて四方へ散った。的岩には2メートルにも余る大穴があいて、信州の方の空が青く見えた。驚いていると、その勢子は雲に乗って吾妻山の峰に走った。頼朝は、これは吾妻山の山霊が勢子に化身して、我の武を奨め給うたのであろうと、祭壇をもうけて鏑矢を供え、武運長久を祈ったという。
花童子宮は、もともと華童子と言います。文禄5年(1596)の『吾妻山宮修理』の屏書には「蓮華童子院別当良叶」の墨書があります。これは蓮華童子の事だといわれています。
童子とは如来(釈迦)の王子または一番弟子に当たる菩薩の別名。
つまり蓮華童子とは、菩薩又は明王級の仏。
密教では金剛童子を本尊として祀り祈濤する修法がありました。
吾妻山の華童子の宮には蓮華童子を本尊として祭り、
御師とされる神職又は社僧や行者がいました。
加持祈禧などの宗教活動が行われていたものと思われます。
登山道にたくさんの社があります。
つづく
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ラベル:的岩・古永井分岐・花童子宮跡を散
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浅間山、嬬恋が一望でき、北アルプスもみるみる雲が切れて、
絶景でした。
あと、途中まで車が入れてよかったですね。
どうしてこんな所に、と思いますが昔は重要な位置だったんですね。
このルートは、昔は賑わっていたことは確かです。
嬬恋村の土地なので、嬬恋村の役場が整備しているのですが、
それを知った旧真田町の役場の人たちが感謝したとのこと。
ここは、真田軍団の聖地でも会ったのです。
今でも、旧真田町の人たちは、信仰登山を行いますから。