という訳で、まずは東善寺。
一度は、行く価値のある寺です。
このマップにそって散策します。
ところどころに、小さな石仏。
ここで、小栗上野介について。
wikiペディアには、こう書いてあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86
安政6年(1859年)に目付。万延元年(1860年)、34歳にして日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。その後勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)、罷免されて領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾での指導や水田整備、用水路建設に従事して日々を送った。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して、武装解除に応じ、さらに養子の又市を証人として差し出し、敵意の無いことを証明したものの逮捕された。翌日烏川のほとりで家臣3名と共に斬首。
逮捕の理由には多数の説がある。大砲2門・鉄砲20挺の所持と農兵訓練が理由であるとする説。また勘定奉行時代に徳川の大金を隠蔽したからであるという説(徳川埋蔵金説)。しかしこれらの容疑には事実の根拠がない。戦後になり明治政府中心の歴史観が薄まると小栗忠順の評価は見直された。作家司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。
まあ、これだけでは、わかりずらいので、少し解説します。
小栗上野介は文政10年(1827年)、江戸駿河台の屋敷に生まれています。
つまり、群馬県人ではない。
なのに、どうして東善寺に小栗上野介の記念館があるのか?
ちなみに小栗上野介は、8歳から小栗家の屋敷内にあった、安積艮斎の塾に入門しています。
艮斎は朱子学者でしたが、陽明学などにも詳しく、自由な学風を愛しました。もちろん蘭学にも詳しく、渡辺崋山や高野長英とも親交を結んでおり『洋外紀略』で海外貿易の必要性を訴えています。小栗上野介は、こういう人から学問をうけたわけです。
ここで、のちの外国奉行・そして幕府のフランス大使となる親友、栗本鋤雲と出会います。
栗本鋤雲は、アンチ勝海舟で有名な人です。
もちろん福沢諭吉もアンチ勝海舟。
武術では、剣術を島田虎之助に師事しました。
のちの勝海舟も、島田虎之助門下です。
島田虎之助は、時代劇オタクにとっては、超有名人なので、いまさら説明するのもなんなんですが、中里介山の『大菩薩峠』では、島田虎之助が土方歳三を、子供扱いするシーンがあって映画の見せ場になっていますね。まあ、これはフィクションなんですが、実際に島田虎之助は、幕末最強の剣豪と言われています。
まあ、そんなことは、どうでもいいんですが、この島田虎之助という幕末最強の剣豪は、蘭学をやっており、砲術、兵学にも詳しかったんですね。当然のことながら弟子の小栗上野介も、ヨーロッパ諸国の武力に詳しくなります。
砲術を田付主計に、田付流砲術を学びます。田付流砲術とは、幕府が採用した火縄銃の流派なのですが、この流派は、他の流派と違ってオランダ製の銃器も扱っていました。そして開国を希望する流派でもありました。当然のことながら、海外の兵器事情に詳しくなります。
そして17歳にして初めて公務につきますが、天才的な才能によって頭角を現します。しかし、濃い性格だったために左遷されます。幕府の組織で生きる性格ではなかったとみえます。しかし、小栗上野介のおもしろいところは、ここからです。
左遷された先々で業績をあげてしまった。
しかし、性格が災いして、また左遷される。
しかし、その左遷先で、また業績をあげてしまう。
どんなに左遷されても、左遷先で業績を残す。
で、ペリーがやってきた。
嘉永6年(1853年)のことです。
異国船に対処する詰警備役の小栗上野介は、開国して造船所をつくり軍艦を保有するべく訴えます。この頃から彼は大活躍します。東善寺のサイトに詳しく書いてありますので、それらを引用紹介してみましょう。
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
小栗上野介の業績
■横須賀造船所建設
■日本最初のフランス語学校設立(横浜)
■フランス式陸軍制度の採用、訓練
■鉄鉱山の開発 中小坂鉄山(下仁田町)など
■日本最初の株式会社組織「兵庫商社」を設立
■小高用水は小栗の遺産 □ガス灯設置の提唱
□金札発行など金融経済の立て直し
□郡県制度の提唱
■森林保護の提唱
□江戸ー横浜間に鉄道建設の提唱
□新聞発行を提唱
□書信館(郵便制度)創設の提唱
すごいですね。
惜しむらくは、このような天才を殺してしまったことです。
ここで、寄り道。
東善寺のホームページがおもしろすぎるので、
ちょっと紹介します。
東善寺は、
咸臨丸を教科書からはずす会
というものをやってるらしい。
会員の特典がおもしろい。
「勝海舟は遣米使節ではない」
「勝海舟はサンフランシスコから帰った」
「遣米使節は咸臨丸には乗らなかった」
「小栗上野介のワシントン海軍造船所見学から横須賀造船所建設が発想された」
・・・などの知識をひけらかすことができます。
会費:無料だそうです。
で、どういうことかと言いますと、
このサイトをみてください。
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm
咸臨丸の虚構二つ
1、「日本人初の太平洋横断」
じつは勝海舟は「軍艦として」を前につけて「日本人初の太平洋横断」と書いている。つまり軍艦以外でなら別に日本人初の太平洋横断した人たちがいることを認めている。それは、慶長15年(1610)に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦案針)に建造させた帆船で田中勝介が太平洋を横断してメキシコへ渡り、翌慶長16年(1611)に帰国している。たぶん勝海舟はこの歴史を知っているから「軍艦として」とわざわざ断りを入れたのだろう。
2、「日本人だけで航海した」
咸臨丸には幕府から頼まれて乗船したアメリカ人船長ジョン・マーサー・ブルック他10名の船員がいて、船酔いで動けない日本人に代わって嵐の海をほとんど乗り切ってくれた。(以下の記述を参照)
アメリカ人船長ジョン・マーサー・ブルックについても、詳しく解説しています。
http://tozenzi.cside.com/brooke.html
以下、ブルックの日誌の一言一句が咸臨丸の試練を物語っている。
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・・・見張りに二人しかいない・・・。咸臨丸には、命令とか規律などというものはなにも存在しないかのように思えた。実際、日本人のやり方では、アメリカの軍隊なら当然存在する規律や命令のようなものは認められないのだ。日本人乗組員は、船室に炭火が少し必要だし、温かいお茶とパイプ煙草がなくてはならないのだ。酒はきちんと管理されていないので、いつでも飲めた。加えて、命令はすべてオランダ語で出されるのにオランダ語を理解する乗組員はほとんどおらず、乗組員は実際に行われるやり方を見て作業を覚えるしかなかった。艦長は相変わらず船室にこもったままだし、司令官(海軍奉行、木村摂津守を意味している)も同様だった。彼らが開け放したままの船室ドアはバタンバタンと音を立てるし、デッキ上に放置されたコップ、皿、ヤカンなどが転がりまわって、まったくの混乱状態だった。とはいえ、忘れてはならないのは、これが彼らにとって初めての航海であり、天候は悪いし、彼らがオランダ語で教育されたことだ。咸臨丸上では、万次郎だけが、日本海軍を改革するにはなにが必要かを知っている唯一の日本人だった。
・・・気圧計が足らなくてなってしまった。ローリングするたびに Adie式気圧計の針は1インチも振れたし、日本人乗組員がアネロイド気圧計の表面ガラスを手で突き抜いてしまったのだ。その残骸は、いま私の船室にある。また、ほかの日本人は天窓を足で突き抜いてしまったが、今日はクロノメーター(経度計測器)にまで達しそうな荒波の中を進んできた。最高に楽しい船旅だ。しかし、私は目新しいものが好きだ。日本海軍がよくなるように努力するし、万次郎の努力が実るよう助けるつもりだ。
・・・夜半まで南南西の風が猛烈に吹いた。なんどか、帆が帆桁から外れてしまうかと思った。真夜中には、滝のような雨が降って空気が白く見えるほどだった。風は西に向かって吹き、たちまち強くなったが、思ったとおりそれ以上の変化はなくて安心した。午前3時に床についた。正午から深夜までに96マイル進んだのだ。床につくまもなく、私はまた乗組員に呼ばれた。激しいスコールだった。ゆうべは、日本人たちのやる気のなさにまったくあきれてしまった。強風が吹いてくることは分かりきっていたのに、ハッチはきちんと閉められていないし、羅針盤箱の明かりはとても薄暗いのだ。デッキ上の当番の航海士は船室に降りてしまっているし、デッキ上では2〜3人の日本人乗組員がうずくまっている。私は万次郎に言って、やっと、見張り当番の航海士だけでなく、航海士全員を引っ張り出してくることができたものの、出てきた航海士達は船尾のほうで一塊になってしまった。
・・・今日は、日本人の航海士や船員を見張りやそのほかの部署に配置しようとした。ところが、思いもしない困難に遭遇した。大尉級の航海士6人は自分の仕事のことをまったく知らないのだ。何人かの乗組員は能力があるのに、司令官は彼らにクロノメーターを預けようとしない。その理由というのが、彼らの陸上での地位がほかの乗組員ほど高くないからということなのだ。高い地位の乗組員が船上では使い物にならないというのに・・・。
万次郎はまったくあきれ果てたが、司令官にゆずるしかなかった。しかし、万次郎は、航海士たちが見張りにつくことがどんなに当然のことかを航海士たちに説得した。
私は万次郎に聞いてみた、
「もし、私がアメリカ人乗組員を非番にして咸臨丸の操縦を拒否したら、司令官はどうするだろう」
彼の答えは、「沈没させるだろう」だった。
「自分だって命は惜しいよ」
と万次郎は言うのだった。
・・・3月1日、私は艦長および航海士たちと一つの合意に達した。これまでは、日本人乗組員がまったく使い物にならないので、自分で常に見張りをしたり、アメリカ人乗組員を見張りに立てたりしなければならなかった。
逆風の時に、どうやって船の針路を変えるかを日本人航海士たちに教えることを提案した。ところが、航海士たちはまったくやる気がなくてデッキに上がってこない上に、なんやかやと言い訳ばかりしている。私はそこで、アメリカ人乗組員全員を呼んで船室に引きこもらせ、私の了解なしには何もするなと伝えた。それから艦長に、日本人航海士たちが協力しない限り、私は船の操縦を一切しないと伝えた。艦長は航海士たちに説教して航海士たちが私の命令に従うようにし、デッキに見張りを立てることができた。
・・・万次郎が言うには、昨夜、万次郎が日本人乗組員にマストに登るよう強く言ったとき、乗組員たちは万次郎を桁端で首吊りにすると脅した。私は万次郎に言った。そのような脅しを乗組員たちが実行に移そうとしたり、日本人乗組員たちに暴動がおこしたりするなら、艦長の許しを得て彼らをすぐさま首吊りにする、と。
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暴風雨があまりにひどくて、ポウハタン号は航路を変更して船体修理のためホノルルに向かった。一方、咸臨丸は予定通りの針路を進んだ。3月17日、37日間の航海の後、咸臨丸はついにサンフランシスコ湾に碇を下ろした。ポウハタン号が到着したのはそれから12日後だった。
海軍長官のアイザック・タウシー Issac Toucey への報告の中で、ブルック大尉は航海中のいろいろな困難について述べているが、そこには(日本人乗組員に対する)恨みつらみはなかった。ただ、万次郎については、「並外れた能力を持つ日本人」として褒め称えていた。
しかし、ブルックは日誌の中では万次郎について、アメリカを見た最初の日本人として、さらに惜しみない賛辞の言葉を連ねている。
「万次郎は、私がこれまでに出会った人間の中で最もすばらしい人間の一人であることは間違いない。万次郎は、ボウディッチの航海術書籍(*)を日本語に翻訳している。万次郎は実に腹蔵のない人間で、万次郎がほかのどの人間よりも日本の開国に関わってきたことに私は満足している。」
(*)ナサニエル・ボウヂッチ Nathaniel Bowditch の New American Practical Navigator 「新アメリカ実用航海術」
かくして、ジョン万次郎と同じ時代に生き、アメリカ海軍に25年余にわたって勤めた、元軍人ジョン・マーサー・ブルックの日誌や書簡の中で、19世紀日本の歴史におけるジョン万次郎の重要さが明らかになった。この分野の研究で先駆的な学者の一人、東京の慶応大学教授、清岡暎一は次のように書いている。「おそらく、ブルック大尉は当時、ジョン万次郎の重要性を本当に理解していた唯一の人間であった。」
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会費:無料
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以上、引用おわり
おもしろいサイトなので、ぜひご覧下さい。
http://tozenzi.cside.com/brooke.html
歴史好きなら絶対にはまります。
つづく。
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あっ、それと、佐藤一斎のことが抜けています。小栗さんにとって一斎さんは欠くことが出来ないのです。
佐藤一斎については、あとで、たっぷり紙面を使って書くこととします。
というのも、佐藤一斎が幕末に与えた影響ははかりしれないからです。