・松代藩文武学校
松代藩が設けた文武併習の学校として1855年・安政2年に開講。
藩校を完全な形で現在に伝えています。
ここでは、文学や武術のほか、西洋の軍学なども教えられており、極めて先進的な教育が行われていました。また、儒教を廃しており、そのため、多くの藩校にみられるような孔子廟を設けていないのも特徴です。儒教色が少なく、実利一本なのが真田らしいですね。
関山仙太夫邸
真田藩士でありながら、囲碁の本因坊烈元に入門し、18歳で初段を許されました。しかし藩中の者から「碁才餘りあるも武道に疎し。是れ武士の本旨にあらず」言われ、一念発起して文武に励み、念流免許皆伝を受けて、再度本因坊家にて囲碁の修行に戻ったと言われます。
文政時代に江戸在住となり、天保2年(1831年)に江戸詰めを解かれて帰郷するに際して、名人となったばかりの本因坊丈和に二子局を願い、これに1目勝ちします。この時に関山仙太夫は、本因坊家に五段の免許を願い出ましたが、初段から一挙に五段まで飛び越えるのは無理な話だ―と名人碁所本因坊丈和に断わられました。とは言うものの実力はあるので三段免許をあたえ折りを見ながら昇段させようと仙太夫を説得しました。
けれど仙太夫は「三段免許ならばいらぬ」と断わりました。以来、仙太夫は生涯初段で通しましたが、本因坊家では五段格で打つことを黙って許しました。これは史実であったらしく、天保10年(1839年)の囲碁番付『囲碁勝劣競』では、仙太夫は、丈策の次に初段で五番目にランクされています。仙太夫のあとは、四段加藤正徹、同伊藤徳兵衛、同中川順節、同河北耕之助、同穂田熈と続きます。この番付表によると仙太夫は六段の次で、四段の前の位置に初段として記入してあります。しかも番付行事後に名人本因坊丈和、準名人井上因碩の名があり、仙太夫の五段格は本因坊家も井上家も認めており「黙許五段」は事実であったことになります。
嘉永4年(1851年)68歳の時、本因坊家跡目となっていた秀策との対局を望む手紙を本因坊秀和に送ります。秀和はこれを認めて秀策を松代に赴かせ、20日間で仙太夫先番での二十番碁を打ち、仙太夫7勝13敗。秀策は仙太夫の力量を賞賛し「妙碁と称すべきもの二局あり」と述べています。安政3年(1856年)には、本因坊秀甫と十番碁を打ち、1勝8敗1ジゴ。藩では祐筆を勤め、囲碁に関する著作も多く、『聖賢囲碁妙手集』『竹林修行用魂集』『囲碁方位初心階』『囲碁初心調練階』などを遺しており、貴重な文献となっています。
つづく。
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最近真田太平記を読んでいて、松代はいつか訪れたいと思っていました。
先日は上田城や真田の庄、角間温泉へ行きました。
松代というと、真田信之を思い浮かべてしまいますが、まだまだ知らない歴史や見所があるのですね。
あと、みなさんにとって真田は、架空のお話ですが、
嬬恋村にすんでる私にとっては、真田は今でも息をしている土地です。
真田・海野・滋野の一族の影響は、この地では大きいし、
松代でも大きいと思いますね。