土屋宗三郎(三余)の弟子、依田佐二平の一族は、戦後の農地改革などで没落した。ただ、依田家の土地に温泉が出た。それに目をつけたのが藤田観光で、依田家のそばに大沢荘という宿をはじめた。昭和28年のことである。そこに御客さんが、訪れる姿をみて依田家も宿をひらこうと考えていた。しかし、依田家に残されたのは古い屋敷と蔵だけであった。
昭和32年4月。日本ユースホステル協会が文部省所轄の財団法人となった。スポンサーは、東洋醸造であった。この会社は、今は旭化成に吸収合併されてしまっているが、「ハイリキ」という日本初の缶酎ハイを出した会社であり、力正宗という日本酒も作っていた。この会社が資金を出して日本ユースホステル協会を支えた。
それによって歴史が大きく展開した。
日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏は、それまで日本青年団協議会の職員であった。そこを退職して、日本ユースホステル協会の正式な専属職員となったのである。そして横山祐吉氏は、青年団のコネを使いながら精力的に地方を回った。そして地方の名家や旅館に
「ユースホステル活動に協力してください」
と頭を下げて回った。昭和33年から38年頃の話である。
横山祐吉氏は、伊豆半島も回った。昭和34年頃である。依田家にもやってきた。依田家は、ユースホステルの開業を決断し、昭和35年8月からスタートした。すると大勢の若者たちがやってきた。この頃、伊豆半島に立て続けにユースホステルが開業したので、大勢の学生たちが旅にやってきた。もちろん徒歩旅行である。伊豆半島一周道路は、まだできてなかった。
それを知った土屋三余の曾孫にあたる土屋九彦氏(15代目の当主)も、自宅をユースホステルにしたいと思って、日本ユースホステル協会に申請した。しかし却下されてしまった。近所に依田園ホステルがあったからである。
ちなみに依田家と土屋三余の家は親戚である。
土屋三余の嫁が依田家の娘なのだ。
土屋九彦氏(15代目の当主)は、依田家に出向いて
「ユースホステルの看板を譲ってくれ」
とたのんだ。
依田家は快諾した。ユースホステルとして成功した依田家であったが、温泉を掘り当てて、温泉旅館としても大成功をおさめていた。なにしろ建物が古く、文化財的価値があったので旅行者が大勢訪れていた。ちなみに、下記のサイトが、元依田園ホステルであり、今の「大沢温泉ホテル・依田の庄」である。
http://www.osawaonsen.co.jp/index.htm
こうして三余荘ユースホステルが誕生した。
若者たちは、三余荘ユースホステルに殺到した。
もちろん徒歩である。
後にバス旅行者も増えた。
シーズンは地元民より、旅行者の方が多くなった。
バス会社は、三余荘ユースホステルの前にバス停を作った。
バス停の名前は、「ユースホステル」であった。
ちなみに三余荘ユースホステルには、最大で60名も宿泊した。
そこには若者たちの青春群像があった。
それを見ていた三余荘ユースホステルのマネージャーの息子さんは、私もユースホステルを使って旅に出たいと思った。高校生の時にユースホステルの会員証を作った。そして、高校時代に三浦半島(神奈川県)の先端にある観音崎ユースホステルで、ユースホステルデビューした。城ヶ島ユースホステル・氷川丸ユースホステルと、横浜や三浦半島を3泊4日で回った。三余荘ユースホステルが、オープンしてから5ヶ月後のことであった。
つづく。
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