北軽井沢最大の観光地は、なんといっても鬼押出園です。しかし、意味もなく鬼押出園にいってはいけません。その前に嬬恋郷土資料館に行くべきです。最初に嬬恋郷土資料館に行き、展示物には目もくれずに、2階にあがって上映されている映画を見るべきなのです。
何事にも基本というものがあります。北軽井沢を極めるのも、基本から入っていく必要があります。そのためには、北軽井沢の歴史と火山関係について基本的なことを知っておく必要があります。それを手っ取り早く教えてくれるのが、嬬恋郷土資料館の2階でやっている映画なのです。
さて、どうして、浅間山噴火が、映画『男はつらいよ・フーテンの寅さん』と関係があるかと言いますと、嬬恋郷土資料館で映画『男はつらいよ・フーテンの寅さん』を上映しているというわけではありません。寅さんが産湯を使った、葛飾柴又の帝釈天。あの御前様が住職をしている帝釈天との間に深い関係あるのです。詳しくは映画をみてもらいたいのですが、ここで簡単な説明をしておきます。
江戸時代の中頃のことです。東京の荒川に突然、大量の死体が流れつきました。当時の江戸市民が、それを供養したのが葛飾柴又の帝釈天のはじまりですが、いったいどうして、大量の死体が荒川を通って江戸湾まで流れ着いたのでしょう?
1783年(天明3)、7月8日の午前10時。浅間山が大爆発しました。土石流は、ものすごい勢いで高速の土石流となって、鎌原村をはじめ多くの集落をおそいました。そして何千という人間を、延命寺の石碑や、常林寺の鐘を何十キロも先に押し流し、死体は遠く江戸湾まで流されました。
中山道は寸断され、軽井沢宿は全戸が焼失。この時の噴火による軽石は、高崎から伊勢崎、本庄方面にも飛んでいき、軽井沢や碓氷峠では1.5メートル、本庄辺でも10センチ前後も降り積もりました。火山灰にいたっては、成層圏にまで達して長く滞留し、日光をさえぎったために、日射量が減じたために真夏なのに防寒着(綿入れの着物)がないと寒くて暮らせなくなりました。
土砂は吾妻川をせきとめ、一時的にダム状態になり、これが決壊して洪水が発生。利根川が大洪水となりました。こうして大勢の人間が一瞬にして死んでしまったわけですが、観音様のおかげで奇跡的に生き残った人たちもいました。嬬恋郷土資料館の映画は、奇跡的に生き残った人たちのその後についても解説しています。
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