私もパラッとのぞいてみたら、
大半は、叱らないしつけについてのものだったので憂鬱になった。
いつから、こういう世の中になったのだろうかと。
世の中の御両親が、それを実行できるとは思ってないが。
それはともかく、こういう育児がブームになると、その後をある程度は、予測できることがある。まず子供たちが大きくなると、空気を読めないとイジメが発生しやすくなるであろう。子供たちにとっては、原理原則より、空気が重要になってくるからだ。コレは根拠の無い話ではない。実は、叱らない育児というのは、大昔からあったことであるし、もうすでに何度も実行されていることなのだ。それだけに、それに対する欠点も長所も、すでに知られ尽くされている。
私が知る限り、一番最初は明治時代にブームが起きている。当時の雑誌に数多く書かれてあった。当時は、旧武家の教育スタイルが一種のブームで、殴りつけるわけでもないのに、旧武家の子供たちは、実に行儀がよかったので、それを見習おうという風潮があった。出典は思い出せないが、国会図書館か大屋文庫あたりで読んだ記憶がある。
しかし、この風潮は、すぐになくなってしまう。理由は、旧武家の師弟の進学率の低さにあった。旧武家の師弟たちは、字もうまく、行儀も良く、小学校4年生くらいまでは、成績も良いのだが、だんだんふるわなくなってくる。その原因について、ある人は、子供向けの雑誌をよませてくれないからであるという人もいた。当時、子供向けの雑誌は下品であるとされていたが、そこには講談が書いてあったので、下品なんてとんでもない。読めば読むほど人徳が磨かれるのに偏見で読ませてもらえなかったのだ。
次の叱らない躾けのブームは、大正時代におきている。自由教育運動である。これは、しつけというより学校教育で、テストもなければ競走もない。学習計画もなければ、教科書もないという破天荒なシステムで、成功をみせてはいるけれど、教える側の苦労は大変なもので教師の誰もがこれを実行できるというわけではなかった。なので、この恩恵にありつけたのは、ある程度、裕福な親をもった少数の子供たちだけである。
さらに昭和にはいって、別のアプローチから叱らない躾けのブームがおきている。原因は、幼児死亡率の減少で子供が大量に生まれだしたことにある。どの家でも子だくさんになり、兄弟における不公平が社会問題化されていた。どんなに親が平等に子供に接していても、子供を不公平に愛するということが社会問題になっていたのである。これは、日本だけの現象ではなく、ヨーロッパでも同じであったらしく、多くの児童文学が、それをテーマに名作を生んでいる。ジュール・ルナールの『にんじん』もそうだし、下村湖人の『次郎物語』もそれにあたる。そのために、戦前は、子供を叱らない躾けブームがおきていた。山本夏彦氏や、山本七平氏ら、大正生まれの中流家庭に育った著名人たちによれば
「親は、親の背中で子供を教育すべき」
というブームが起きていたらしい。
で、これが、ある程度うまくいっていたが、今には存在しない前提があった。
少年倶楽部・少女倶楽部・キングなどの修養雑誌の存在である。
当時は、親のかわりに、子供を教育する媒体があったのだ。しかも、その媒体は、現在のテレビやインターネットよりも強力で巨大であったのだ。で、その媒体の編集方針というのがかわっていて、教育的なことを面白くおかしく伝えるというものだった。そのために、出版前に、大勢の子供たちに試し読みさせて面白いか面白くないかアンケートまでさせていた。
なので、戦前の子供たちは、貪るように少年倶楽部・少女倶楽部を読み、その結果、自然と自分自身で自分を教育していたのである。しかし、例外もいたらしい。渡部昇一氏によれば、氏の故郷では、旧武家の子供たちは、やはり少年倶楽部・少女倶楽部をよませてもらえなかったらしい。そのために教養に差がついてしまったようである。
それはともかく、そのせいか戦前は、今以上に空気に支配されるようになっていた。戦前にくらへれば、現在は空気がよめなくても生きるに不自由はない。山本七平氏の『空気の研究』によれば、戦前における『空気』の凄まじさに驚かされる。そして、この空気が原因で悲惨な戦争を戦ったんだとわかる。
話がおおきくそれた。
現代の話に戻す。
叱らないしつけがブームになるということは、原則よりも空気を重要視する子供たちが増えると言うことが予測できる。今後は、ますますそういう社会になっていくだろう。ますます人望が問われる時代になっていくに違いない。どうやら現代の子供たちは、大変な世の中を生きていかなければならないようだ。原則は目に見えるけれど、空気は目に見えないからだ。目に見えないものを読みつつ、世渡りをしなければならない。日本は、確実に江戸時代の社会環境にもどりつつある。
つづく。
↓ブログ更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング
【関連する記事】
- 息子が九歳になった
- スマホ(インターネット)という罠
- 豆のない節分
- 大学に行くために預金にはげむ息子
- 子供がサンタクロースに手紙を書かなくなってしまった
- 歴史マニアになりつつある息子
- 息子の実験
- おそるべきEテレ
- 息子の投資が危険信号
- 確実にオタク予備軍になっていく息子
- 教育スタイルが御客さんバレた瞬間
- サッカーボールを2回もパンクさせてしまった
- 息子は、嬬恋村ふれあい教室で、オニヤンマ作り
- 「自由研究」と「工作」
- 息子がオリンピックに熱中
- 息子からもらった誕生プレゼント
- 授業参観は、ことばの教室!
- 安物の文具を使ってはダメだったんだなあ
- 1週間の引きこもり生活を終えた息子
- 宿題のない春休みは、子供の天国
親だけでなく、とりまく大人は、誠意を持って、
日本の将来をみんなで育てようではありませんか。
叱るよ、叱ってしまうよ。
だって、家庭ひとつとっても、ルールがあるんだから。
我が家のルールは、厳格どころか、かなり甘いんだと思うけれど、でも、公共心に関わることとか、やっぱり、叱らざるを得ないことが多いです。
叱らない育児って、よく書いてあって、それができない自分は、ダメ親だと思っていたんですが…。
私は、戦争が、大衆による空気により突入したことを知って以来、その歴史を学んで、その愚を犯さないことを、心の底から願っています。
私は、その空気が醸成されることを憎んでいるくらいです。
もし、叱らない子育てが、そこに行きつくのであれば、引き続き、叱るべきときには、叱ることにしたいと思います。
怒るのと叱るのは違うと言います。子供が二人いますが、怒らず叱る、なぜかを説明しながら叱る、と心がけ、上の子は「お父さんはお話しの怒り方するから怖い」と、いくらか効果があった感あったのですが、下の子には通用せず、ついつい怒ってしまったなんてことを思い出しました。
教育(育児)のように心に関する問題は文字だけで伝わりにくい部分もありますが、私は「叱らなくていい育児」が可能ならば実践したいと考えています。
親が子を支配するのでなく、子に親が服従するのでもなく、ましてや親が子に無関心でやりたい放題にさせておく放任ではなく。
子どもの行動によって具体的な影響があって困ることがあれば、それを率直に具体的に子どもに伝え、自分(親)の感情を伝える。
価値観の違いから揉めるなら、経験を含めた様々な材料を元に親の価値観を子どもに伝える。これは叱るのとは少し違うと思います。
叱るとは、親あるいは上司や教師など目上の立場から「こうすべきである」と言うことを聞かせる。それは力関係を利用した抑圧につながらないか?と思うのです。
子どもは社会からの預かりもの。だからこそ親が社会の為に、ひいては本人の為に厳しくしつける…という考えもあるでしょう。
ただ、叱らなくても子どもが自ら考え行動するように導けるなら、それに越したことはないのではないでしょうか。
信頼しあえる親子関係、人間関係が築かれていれば、ちょ
親の背中を見せる(模範になる)のは、即効性はないが最も効果がある…と学んでいるところ。子どもは親の言葉を聞くのみでなく、表情や行動を見て育っているんんだと、つくづく思い知らされます(-.-;)
確かに見せるだけでは空気を読むことを強制するばかりですが、同時に言葉でしっかり伝えること、言葉を理解する子どもなら課題について話し合うことが欠かせない…と。良いこともそうでないことも。
じゃあ実践できてるか?と聞かれたら、叱るどころか怒ってることもしばしば。咄嗟にどの行動を選ぶのか、自分が出るんだな…と内省する日々です。
みわぼーさん
Akiさん
あんみつさん
叱らない育児は、過去に何度となく提唱されています。それの焼き直しが、最近の育児書の傾向なんですよね。だから家内が読んでた育児書をパラパラとめくったときに、思いっきりシラケてしまった記憶があります。で、この叱らない育児というのは、日本独自のものなんですよね。海外にはない。なのに、叱らない育児を提唱している人は、『・・・・だから、日本人は自分自身を低く評価する』なんて書いてあるので、よけいにシラケてしまった。叱らない育児と、怒らない育児を混同してはダメですよ。
それはともかく、過去に叱らない育児を提唱した人に下村湖人がいます。彼は、親友の田澤義鋪の人徳による感化力で青年を教育している姿にヒントを得て『白鳥葦に入る』をおもいつきました。それは、白い芦原に白い鳥が舞いこんでも姿はまぎれて見えないが、その羽風によって静かだった芦原がそよぎ出す様に例えて、叱らずとも人徳だけで、世をかえていくさまを理想としました。しかも、その人徳は、目に見えない。誰かが英雄的な行為で人を感化させるのではなく、知らない間に、世の中が変わってている。しかも、その原因は分からないままというのを理想としていました。で、これを実行すべく、全国に『煙仲間』という壮年団(つまり親たちのことです)をつくるわけですが、それらは、組織でさえない。あえていえば、柳生のクサみたいなもので、陰に世をささえるというものです。もちろん、こんなことは、実現不可能にちかい。他にも多くの著名人が、叱らない育児を提唱してますが、機会があったら書きましょう。