彼は日本で初めてメーテルリンクの幸せの青い鳥を実質的に翻訳した人である。明治四十五年のことであった。若月紫蘭は、東大の英文科で夏目漱石に文学を学んでいる。夏目漱石とは、何度も手紙の往復をしており、かなり親密であったと思われる。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、
職分論 サミュエル・スマイルズ
勤倹論 サミュエル・スマイルズ
を翻訳している。スマイルズは、「天は自らを助ける人を助ける」の名文句で有名な自助論の著者でもある。この自助論は、明治時代に日本で最も多く読まれたベストセラーでもあった。当時の日本人は、自助論を発見することによって、西欧に論語に相当する書物があると思い、この精神によって西欧諸国が近代国家になったのだと理解した。そのスマイルズの著作を翻訳したのが若月紫蘭である。
彼はその後、1908年(明治四十一年)「万朝報(朝報社)」の記者となっている。万朝報(朝報社)は、大衆的な新聞社で高浜虚子、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が在籍した新聞社でもある。その万朝報の記者時代に東京の文化風習を調べ、貴重で歴史的価値のある『東京年中行事 春陽堂(明治四十四年)』を出版している。 さらに明治四十五年においては、
英語練習ノート・若月保治・東亜堂 1912
蓄音器の話・若月保治・朝報社 1912
自動車の話・若月保治・朝報社 1912
電車の話・若月保治・朝報社 1912
活動写真の話・若月保治・朝報社 1912
汽車の話・若月保治・朝報社 1912.8
飛行機の話・若月保治・朝報社 1912.8
などを上梓しており、大正にはいってからメーテルリンクの『幸せの青い鳥』を植竹書院で出版している。しかも当時の雑誌(新小説)などに、その梗概が掲載され、評論家たちがいろいろ論評を述べている。
さらに大正二年、『サロメ オスカー・ワイルド 現代社 (近代脚本叢書)』を出版。
この台本をもちいて大正四年に芸術座は、島村抱月の演出、松井須磨子の主演で、帝国劇場で公演を行っている。芸術座は松竹と提携して大衆化路線になるのだが、大正七年十一月五日に島村抱月の突然の死、そして松井須磨子の後追い自殺によって芸術座は崩壊する。往年の大女優である水谷八重子は、この芸術座に子役としてでている。
その水谷八重子は、崩壊した芸術座の残党たちでつくった民衆座でメーテルリンクの『幸せの青い鳥』の主演を演じている。大正九年二月のことである。横山祐吉がまだ麻生中学に在学している頃である。その劇団員の中には、大佛次郎夫妻もいた。前にも言ったが大佛次郎の実兄が野尻抱影。麻生中学校の英語教師であり、小説家でもある。
とにかく、サロメにしても、青い鳥にしても、若月紫蘭の翻訳脚本によって芸術座などの新劇の舞台が大成功した事実は、新劇界において若月紫蘭の存在を大きくした。
翻訳といっても、現代における翻訳とは意味が違う。当時の日本には、共通化された口語表現がなかったわけであるから、演劇脚本の翻訳は、新しい日本語(口語)を作る作業にも近いのである。つまり近代日本語を作るにも等しい事業だったのである。
メーテルリンクの幸せの青い鳥。この作品を映画などで見た人は多いと思うが、よくも悪くも、この作品は、新しい日本語(口語)にかなり影響を与えている。翻訳した若月紫蘭も、かなり衝撃を受けたことであろう。そして、大正十年「人と芸術」を仲間の作家たちと創刊。多くの新作を発表した。さらに翌年、大正十一年十月に万朝報を辞職。東儀鉄笛とともに新劇研究所を設立。
新劇研究所は、小石川駕籠町(東京都文京区南部の春日町から白山の方に向かったところ)にあった。理事に劇作家の津村京村(つむらきょうそん)、同じく劇作家の平尾盈高(ひらおみつたか)、巌谷小波門下の生田葵山(いくたきざん)などがいて、所長が東儀鉄笛であった。
そこに新劇の研究生たちが、週に二回ほど集まって台本読みを行った。必ずしも役者になろうという人たちだけが集まったわけでは、ないが、もうすでに役者として活躍しておられる人も研究生の中にはまじっていた。次の公演までの間、役者として修行を行うためだ。
後日、名女優として歴史に名を残した人をあげれば、千田是也の妻として劇団俳優座の創立に参加した岸輝子(代表作・映画にあんちゃん、白い巨塔など)がいる。この頃の彼女は、陸軍病院の看護婦をやりながら新劇研究所に通っていた。
千田是也、東野英治郎らと俳優座を結成した東山千恵子(代表作・映画東京物語など)もいたらしいが、詳細は不明である。
変わり種には、河原侃二(かわら かんじ)という俳優・詩人も通っていた。萩原朔太郎と『侏儒』を創刊し、北原白秋、山村暮鳥、前田夕暮、室生犀星、村田ゑん、尾山篤二郎、木下謙吉、北原放二らと一緒に活動している。その後、水谷八重子の「わかもの座」、村山実たちの「踏路社」に参加し、浅草オペラの舞台にさえ出演していた。また「築地小劇場」の設立メンバーでもあった。その後は、映画スターとして大活躍し、戦前は松竹、戦後は大映で多くの映画に出ている。大映が倒産してからは版画家として活躍した。
有名どころをいえば、映画監督の豊田四郎(とよだしろう)も研究生であった。「夫婦善哉(1955年)」や「恍惚の人(1973年)」の監督である。彼は次々と文芸作品を発表しつつも、森繁久弥の駅前シリーズを作った名監督である。林芙美子の『泣虫小僧』も映画化している。
後の作家もいた。『新潮』の名編集者として鳴らし、太宰治の担当だったことで知られる楢崎勤(ならさきつとむ)も研究生であった。彼は小説家でもあり、読売新聞記者としても活躍している。
作家の有名どころをあげれば、『放浪記』で有名な林芙美子だろう。森光子が長いこと演じた「でんぐりかえり」で有名な、あの『放浪記』の作者である。彼女は、新劇研究所ができた翌年にあたる大正十一年に上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活しながら、新劇研究所に通った。そこでシナリオを読むという体験をし、その影響か『芙美子』という名前でシナリオ風な日記をつけはじめた。それが『放浪記』の原型になっている。ちなみに、この関係で知り合った新劇役者と彼女は同棲しているし、年末年始には横山祐吉の自宅でカルタ大会に参加している可能性も高い。
(ちなみに彼女の文学的自叙伝によれば「私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封おびふう書きに傭やとわれて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。」とある。言うまでも無く小学新報社とは、鹿島鳴秋や清水かつらが「少女号」の出版社であるが、後年、横山祐吉もここで働くことになる)
シナリオライターを目指している人もいた。新劇研究所のそばで小学校教員をしていた天笠貞である。彼女は、ここで横山祐吉を見初めて彼と結婚する。そして、志賀恭子という名前で児童作家としてデビューする。
東儀鉄笛の付き人をしていた伴淳三郎は、新劇研究所の入所しようとするが、あまりにも秋田弁の訛りが酷いので、面接で若月紫蘭に落とされてしまった。アルファベットを秋田弁でしゃべってしまい、聞き取れなかったらしい。所長の東儀鉄笛の付き人であっても、ダメなものはダメであった。しかし、転んでもただでは起きないのが伴淳三郎である。
「東儀鉄笛の付き人の俺は、秋田弁で新劇研究所を落とされた男」
という秋田弁キャラを確立させ、それを売りに映画界に残った。
そして新劇研究所に合格した映画監督の豊田四郎と出会い、あの駅前シリーズで起用され大ブレークするのである。世の中、何が起きるかわからない。
つづく。
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