日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉は、若い頃、若月紫蘭の新劇研究所に通っていた。何故新劇だったろう?それがわからなかった。そこで私は、国会図書館に通って新劇について多少なりとも調べてみた。そして大筋を理解した上で、ブックオフやAmazonで片っ端から新劇関係の資料というか本を買いあさった。ありがたいことに、かなり貴重な資料が、 1円ぐらいから買うことができる。もちろん書き込みや、劣化の激しい本ばかりではあるが、単なる資料なのでそんな事は気にならない。とにかく資料集めまくり、それがかなり重要なものであったら、何万円しても状態のいい本を再び買い直すから問題ないのだ。
そんな状態であるので、一階にある3人部屋(12畳)は、私の臨時の書斎となって、新劇の本が山積みになっている状態である。そこには嫁さんは入ってこない。入ってくるのは1歳児の息子だけだ。息子は盛んに新劇の資料を振り回して遊んでいる。本当に困ったものである。
まぁそんな事はどうでもいいとして、珍しく私の書斎に嫁さんが入ってきた。こういう事は、1年に何度もない。本当に珍しいことではあった。そして何を考えたのか、山積みになった新劇の本をじーっと見ていた。嫁さんは、根本的には、こういう書物には全く縁のない人間である。どちらかというと、ハリーポッターとか、指輪物語みたいな本を読むタイプなのだ。それが何を思ったか、じーっと山積みになった資料をみてつぶやいた。
「これは、大学時代にやったなぁ」
「はぁ?」
よくよく聞いてみたら、うちの嫁さんは大学で劇芸術と言う物を専攻していたらしい。そういえばそういう話を、結婚前に聞いたことがあったような気もする。山積みされた新劇の資料の中には、彼女が教科書に使ったであろう本もあったらしい。
これはいいなと思った私は、いろいろ質問してみたが、何も出てこなかった。大学で学んだものは、すっかり消えてしまったらしい。一体4年間で何を学んだのだろうと、不思議に思ったのだが、よくよく考えてみたら、そういうものかもしれない。勉強というものは、自分で自らやろうとしなければ身に付かないものなのだ。外から強制された勉強は、すぐに頭から消え去ってしまうものなのだ。
これは私も同じである。
受験勉強などで得た知識は、すぐに忘れてしまう。資格試験で一夜漬けで勉強した知識も頭に残ってない。逆に絶対に忘れることのできない知識というものは、興味があったことか、体でたたき込まれた体験を伴う知識である。
長い前置きはここまでとして、本題に入る。
日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉は、若い頃、若月紫蘭の新劇研究所に通っていた。何故新劇だったろう?それがわからなかった。そこで私は、新劇について多少なりとも調べてみたら、戸板康二と言う作家が、日本にもマイフェアレディがあったと、発言していたのを見つけ、なるほどなと思った。横山祐吉も、ミュージカルマイフェアレディの主人公のように人生が変わってしまったのだなと思った。
マイフェアレディというのは、有名なミュージカルである。主演はオードリーヘップバーンで、社会の底辺で暮らしていた発音が無茶苦茶な女性を、言葉を上品に話せるように改造することによって、王女様のような人々に仕立てて、世間を欺くという物語である。この映画の面白いところは、底辺の人々が、徐々に上品な言葉を覚えていくうちに、人格まで変わっていくことである。言葉が変わるだけで、底辺の女性が少しずつ高貴な女性の人格に変化していくのだ。
その指導をするのは、言語学の教授なのであるが、いつしか底辺の女性はその教授に恋をする。もちろん教授も女性に恋をするのだ。これがミュージカル映画のマイフェアレディの大まかなあらすじである。この映画の見所は、主人公の女性に上品な言葉を教えることによって、人格や身のこなしを含めて何もかもが変わってしまうというところである。
まさに、こういう事件が過去の日本にもあったのである。そーゆー女性がいたのである。その女性の名前は小林正子。別の名を松井須磨子という。日本初の新劇女優であった。中山晋平が作曲した、あのカチューシャの唄を歌った人でもある。
松井須磨子が生まれたところは松代である。真田藩士の家柄で、いわゆる旧家であった。そこの9人兄弟の末っ子として生まれている。裕福な旧家の生まれなので何不自由なく育ち、お嬢様として育てられている可能性が高い。おそらく皆に可愛がられていたと思われる。しかし16歳の時に父にしなれた。父は臨終の間際に東京に出なさいと言った。それに従った松井須磨子は、 2番目の姉の家に身を寄せ、戸板裁縫女学校に通った。そして卒業すると同時に千葉県木更津で割烹旅館を経営しているところに嫁いだ。
ところがである。彼女は、はにかみ屋で声が出なかった。ろくに挨拶ができなかったのだ。これは旅館の女将として致命的であった。おまけに大女であった。顔も美人からほど遠かった。その上、ろくに口がきけない上に、挨拶などの行儀作法もてんで駄目であった。
旧家の 9人兄弟の末っ子という立場で、甘やかされて育ったせいか、何一つ接客ができなかったのである。18歳まで甘やかされて世間を知らずに生きてきたのだ。そんな娘がいきなり旅館の女将になったとしてもうまくいくわけがない。自信喪失して鬱になるのも無理はないだろう。彼女は、生理が来ると布団に寝込んだ。それを舅が嫌った。その結果半年も待たずに離縁され木更津の旅館を去り東京の榊病院に入院した。そこで知り合ったのが前沢誠助である。松井須磨子は、 4年後にその前沢誠助と結婚するのだが、 そのきっかけが芝居であった。
前沢誠助は巌谷小波の門下生であった。巌谷小波は、おとぎ話の開祖みたいな人なのだが、その門下生がおとぎ芝居の演劇をやっていた。そこにやってきたのが松井須磨子である。なぜか彼女は女優になりたがっていた。ところが松井須磨子は初対面の挨拶も出来なければ、ろくに口もきけない。美人と言うわけでもなく鼻ペチャでむしろ人並み以下だった。おまけに顔も体も大きく、動きはがさつで、全く落ち着きがなかった。その上教養もなかった。
女優としては、とても成功するとは思えなかったのである。
そんな彼女が、唯一武器にできる物と言ったら、女性と言う武器である。といっても、社交的なわけでもなく、大して美人というわけでもないので、果たして武器になったかどうかはわからない。
しかし、現実世界は、理屈通りには動かない。
この挨拶もできない松井須磨子を嫁にする物好きな男がいた。
前沢誠助である。
何がどこを気に入ったのか、彼が彼女にデレデレになり、自分のコネをフル活用して松井須磨子を女優にするのである。
まず坪内逍遥の文芸協会の演劇研究所に研究生として入所させた。おそらくそこしか入るところがなかったと思われる。どんなドサ回りの劇団であっても、挨拶もできない器量の悪い大女に仕事がなかったと思う。しかし坪内逍遥は、彼女の入所を認めた。理由は簡単で、でかいからである。同期に3人の女性がいたが、 3人ともでかかった。みんな170センチぐらいあったといわれる。
この文芸協会に講師として存在していたのが、東儀鉄笛であり、島村抱月であった。
東儀鉄笛は、いわゆる明るいスケベで、よく下ネタを言っては人を笑わせる。
それに対して島村抱月はむっつりスケベであったらしい。
松井須磨子は、もともとは不器用な人間だったので、とにかく一生懸命演技の勉強した。と言うより前沢誠助のコネクションで、いろいろ家庭教師をつけて頑張った。当時、最新技術であった整形手術も前沢誠助の援助でしている。前沢誠助は、ありとあらゆる力を使って松井須磨子に尽くした。そして松井須磨子は、文芸協会の島村抱月や坪内逍遥に認められるようになる。つまり、マイフェアレディの日本版がそこにあったのだ。
しかし事実は小説より奇なりである。
いや、事実はミュージカル映画より奇なりである。
この物語は、マイフェアレディのようにハッピーエンドでは終わらなかった。松井須磨子は、そこまで尽くしてくれた前沢誠助をいとも簡単に捨ててしまうのである。そして、次のパトロンを探し求めるのだ。最初は坪内逍遥に甘い声をかけたようだが、倫理に厳格な坪内逍遥にそんなものが通用する訳がない。明るいスケベの東儀鉄笛にも何か仕掛けたようだが、京都人である海千山千の東儀鉄笛に通用する訳がない。
最後に残ったのがむっつりスケベの島村抱月である。もちろん妻子がいる。小さな子供たちもいて、あのカチューシャの唄やゴンドラの唄を作曲した中山晋平が書生として、島村抱月の子供の子守をしていたのである。その島村抱月を松井須磨子は公私ともに何かと頼るようになった。依存するようになった。
松井須磨子は依存症の病気を持っていた。 17歳で旅館の嫁になって捨てられてしまった女である。それがトラウマになったのだろうか? 何かに捨てられまいと、怯えるように、常に誰かに依存するようになっていた。最初は前沢誠助に依存していた。そしてマイフェアレディのように女優としてデビューする。すると前沢誠助のことはケロリと忘れてしまって、島村抱月に依存してしまった。いつも全方位に顔を向けて、依存すべき人間を探しているような女性だった。だから、島村抱月でなくてもよかったのかもしれない。しかし、島村抱月は、自分に依存してくる松井須磨子を支えてしまったのだ。そして不倫関係が成立してしまうのである。
中山晋平は、それに苦しんだ。
島村抱月の子供たちが悲しんでいる姿にを苦しんだ。
それを師匠である島村抱月に何度も訴えたが、だめだった。
中山晋平がのちに童謡作家として数々の名作を残すのは、この時の苦しみがあったからである。そう思うと、彼が作曲した砂山やシャボン玉を聞いてみると、心にズシリとくるものがある。
それはともかく、マイフェアレディのような物語はこれ1つでは無い。日本ユースホステル協会を作った横山祐吉にも同じような体験があったのである。彼も芸事で大化けした体験が何度もあったのだ。最初は弁論であった。無口でろくに挨拶もできず、人と口がきけない横山祐吉を大きく変えたのは麻生中学校の弁論部であった。彼はその弁論部で、先輩たちから弁論を鍛えられ、弁論大会で代表に選ばれている。その時に毛虫が蝶々に変化する快感を覚えたのだ。
次は音楽であった。横山祐吉の音楽の才能を開花させた男は、目の見えない視覚障害者であった。目が見えないにもかかわらずピアノを弾く友人に音楽の才能を開花させられた。ここでもマイフェアレディのような奇跡が起きた。毛虫が蝶々に変化した。そして東京上野音楽学校の声楽科に1発で入学している。
そして次は新劇であった。もちろんここでもマイフェアレディのような奇跡が起きている。というかもうすでに奇跡とは言えない。弁論部で鍛えた声、声楽科で鍛えた声、それらの才能が、台本の朗読で人々を驚かしている。ここでは最初から蝶々であったかもしれない。ただ不思議なことに、横山祐吉は、毛虫を蝶々に変えてくれた恩人の名前を後世に残してない。
ただ一ついえることは、松井須磨子ほどでは無いにしても、少しばかり人に依存するようなところがある。それは彼のその後の人生を見るとよくわかるのだ。 そして依存すべき人々に全て先立たれてしまうと、彼は振るわなくなるのだ。
つづく。
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ミステリファンのダンナが戸板先生の著作をもっていて、驚いたことがあります。
私は、奥さまと同じ学問を専攻していましたので、戸板先生のことは、演劇評論家であり、演劇学者として存じていました。
確か、明治から大正頃の女優の列伝のような本を卒論前の課題の小論文で、川上貞奴をやるのに読んだのが、戸板先生の著作だったように思います。
ちょっと懐かしくてコメントしました。
松井須磨子が、既婚者でありながら、抱月と不倫関係だったり、人間的にアレな感じの女性だったのは知ってましたが、巌谷小波のお弟子さんの奥さんで、マイフェアレディのような溺愛されていたとは。
劇芸術専攻卒として浅学で恥ずかしい限り。
所詮、学部生レベルでは、演劇学の一般教養程度の知識が得られたらせいぜいで、あとは、卒論で専攻したことをようやく一般教養から少し深く調べて学ぶことで知ることがせいぜいです。
そういう意味では、奥さまは、テレビドラマ研究の人だから、新劇のことは、あまり記憶が残りづらかったのではないでしょうか??
ちなみに、私の卒論は、岸田國士の戯曲研究でした。
新劇の人(岸田國士は、文学座の設立者の一人)を卒論でやってても、松井須磨子のことは、マネージャーさんの方がお詳しいのは、ちょっと悔しいです(^_^;)
フランス演劇派の岸田國士と、イギリス演劇派の坪内逍遙・島村抱月、そして東儀鉄笛は縁が遠かったとはいえ(^_^;)
ちなみに、小山内薫や土方与志ら築地小劇場はドイツ演劇派かな?
ますます、話がそれて失礼しました。
私も、二十年くらい前の錆び付いた知識なんで、間違いあったら申し訳ありませんm(__)m
(一般人は演劇の本なんかよまないけれど、推理小説をかじりますね)
けれど、なぜ演劇評論家であり、演劇学者なのかと不思議に思っていたら、松井須磨子を調べている間にその理由がわかってしまいました。このブログの本文を読んでみれば分かるとおり、松井須磨子は父の死後に 2番目の姉の家に身を寄せ、戸板裁縫女学校に通っています。この戸板裁縫女学校の経営者が戸板康二の身内なのです。つまり戸板康二は、子供の頃から松井須磨子の情報についてよく知っている環境にあったわけです。だから新劇関係者が松井須磨子を調べるために、彼のところによくやってきたわけで、それを実体験として持っている彼は、調査というものを肌身で知っていたわけです。その実体験が、どうやら推理小説作家の道を開いた気がします。
>ちなみに、私の卒論は、岸田國士の戯曲研究でした。
これはこれは、北軽井沢とご縁がありますね。それでは是非、岸田国士の別荘に行かねばなりませんね。機会があったら是非行ってみてください。 北軽井沢のゼンリンの地図がありますので。
ただ1つ言える事は、過去に存在する魔性女の大半が、男に依存する傾向があると思うのですね。依存されて依存されまくって俺は面倒見なくっちゃという感じになると、男はいとも簡単に陥落されてしまうのかもしれませんね? 特に明治時代の男たちにはそういう傾向があったのかもしれません。いや、これは現代人も同じなのかもしれない。魔性の女というのは、美人とかスタイルが良いとか、そういうものは全く関係なくて、男に対する依存心が非常に高い女性が、魔性を発揮するような気がします。果たしてこの推理は当たっているのかどうか?
その節は、ゼンリン地図をお借りし、丁寧な説明をしていただきありがとうございましたm(__)m
その時の記録をリンクでこのコメントにて張らせていただきます。
岸田國士さんの資料を卒論の為に当たっていた時に、「北軽井沢の冬の寒気は、心持を凛とさせるので好きだ」と、岸田國士さんがおっしゃっていたのですが、その当時は、まったく無縁な土地だなあ、と思っていたのですが。いやはや、めぐり合わせとは不思議なものです。
それから、戸板女子! そうですよね。戸板先生の一族の方が運営されていたんですね!
ちなみに、大正・昭和初期の劇壇は、坪内逍遥の文芸協会から派生した芸術座の島村抱月・松井須磨子があり、その後、ロシアのチェーホフの戯曲、ドイツ表現主義の演劇を上演した築地小劇場の小山内薫、土方与志、それから、遅れてフランス演劇の影響を受けてる、岸田國士、岩田豊雄(獅子文六)、久保田万太郎の文学座が台頭していたようですね。
私も演劇の研究から20年以上離れているので、記憶がさび付いて間違ったことを書いていたら、すんません(^^ゞ